2008年03月31日

本>旅行記 「インドでわしも考えた」 作:椎名誠

「インドでわしも考えた」,作:椎名誠,集英社文庫です。
椎名誠さんが、行った人により様々に評価の分かれるインドという国に、あえて予備知識等は一切持たずに行き、そして目に映ったもの、出会った人々との事に関して等、自分で体感したことを正直に書こうとした旅行記&エッセイと言う感じの作品。

それでも、行くに当たって、素朴な疑問を幾つか持っておいて、それを確かめてみようということはされています。
・インド人というのは、3食いつもカレーを食べているのか?階級や富貴に関わらずそうなのか?
・カースト制は今も生きているのか?
・インドの女性はサリーしか着ないらしいがそれは本当か?

と、誠に足が地についた疑問で、変に大上段に構えて哲学しようとしていない所が、この作家さんらしくてとてもいいです。

もう一つ、重要なテーマとして上げているのが、“インドのヨガの行者で空中に3メートルも飛び上がる人がいるらしいが本当にいるのか??いるのなら探してみよう”
という、頭の固い人が読んだら、これだけで憤慨しそうな事柄を挙げておられます。


私自身は、こういう発想がそもそも出来ない性質だと思っているので、この発想とそれでいいという決断が出来ること、そして実行してしまっているあたりが正直うらやましいです。(私ではとても出来ないことと思います)

で、実際に読んでみた感想ですが、インドと言うのは、あまりにも様々な面がありすぎて、一度の旅で見聞した経験だけでは、とても描ききれる物ではないのであろうなーと思いました。 (作家さんも最後のあたりで、そんなようなことを書いておられます)
椎名さん一行のガイド役のインド人たちも、親切に案内もしてくれ、3m飛び上がりヨガ行者の情報も頼めば一応情報収集もしてくれています。 しかし、自分の懇意の土産物屋に連れ込んで、みやげ物を買わせてリベートを得ようとするあたりは、なんともあざといと言うか抜け目がないという一面も持っています。


それ以外でも、街を歩けば、しつこく付きまとう物売りがいたり、物乞いが車にわらわらと寄って来たりと、読んでいるだけでも、人の多さと混雑、猥雑さが空想されてうんざりしてしまいそうな描写もありました。
聖なる河、ガンジス河の沐浴を試みに、河に向かったときの描写も、恐ろしく混雑を極め、あらゆる人間生活の要素がこの周辺で展開されているような、人も物も牛もごった煮の如くあふれている様子が描かれていて、実際は、心静かに沐浴どころではなさそうな感じです。(少なくとも日本人の感覚では)


この本が書かれて、文庫版の初版が出たのが、1988年となっていて、この作品は20年前くらいにインドに行った体験を綴られた作品なのですから、今のインドとは多少異なる所もきっと色々あるのだろうと思います。 しかし、インド関係のニュースや、ドキュメンタリーを見たりしても、一方で、IT産業とその技術者を大勢輩出して、IT大国としての一面を見せ、都会では巨大なショッピングモールが出現している。 しかし逆の一方では、電気も無い山間の農村に何とか電気の灯りをと、太陽電池パネルと電灯を組み合わせた製品を設置して回る青年の活動がニュースになったりもしていたことを記憶しています。

どうも読んでいると、インドと言う所は、あまりにも人も、建物も、生き物も密集しすぎていて、それらの人々がエネルギッシュに生きるために更に混雑を極めているような印象を受けました。
全く、根拠の無い憶測ですが、インドが全体としてそうなのか?貧富の差が激しいのか?それは分かりませんが、十分に富が行き渡らない状態にあるのではないのか?と思いました。 気候的には、熱帯といっていいくらい暑い国のようなので、その気になれば、ほったらかしておいても、食用になる植物がワンサカと出来て、ある程度の人口ならのほほんと暮らす生活が出来てもよさそうに思っていたりもしたのですが、そういう生活をやるにはもはやインドの人口は多すぎるのかもしれません。 それゆえに人々は、エネルギッシュに動かざるを得ないのかもしれない・・・と思いました。
※ これは、全く根拠はない考えです。 だから間違っている可能性のほうが高いでしょう。


しかし、この作品の文体も椎名誠さんらしい、実にコミカルで、読みやすい作品で、とりあえずインド物を読んでみたいという方ならお薦めではないかと思う作品です。
何か一つの物事を見たら、そこから次々に思考、検証がされて、話しが難しくなると言うことはほとんどなく,どんどん見聞して、どんどん書いているという感じなので、引き込まれると一気に読んでしまう感じの作品です。




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2008年03月30日

アート> 「小谷彰宏展」 信濃橋画廊5

地下鉄 本町駅近くにある、信濃橋画廊5で開催中(3/24〜4/5)の「小谷彰宏展」−かくすとみえます2−を見てきました。 信濃橋画廊に4つある展示室で、2番目の大きさの展示室。 ※なかなか面白い展示方式に出会えたので書いてみようと思います。

この方の作品は、プロジェクターで光と街の風景を壁に投影すると言う作品。
ただ、独特なのが、2台のプロジェクターを使用して、一台は街の風景を投射し、その後方に位置するもう一台がただ光だけを投射するという作品になっています。


見に来た人の鑑賞として、どんな具合になるかと言うと、映像が写っている壁面に光を投射している2台のプロジェクターは、一台は壁面の近くに、もう一台は2mくらい後方に位置しています。 見に来た人は、ドアを入ったくらいの位置にいると、見えるのは単に白い光だけです。微妙に光の大きさが変わってはいますが。 しかし、前後に位置する2台のプロジェクターの中間に自分の体を持ってきて、後方のプロジェクターからの光を自分の体で遮るように立って見ると、前方に位置するプロジェクターから投射されている町の風景が途端にはっきりと映し出されて“おお!!”と驚くという感じになっています。

自分の体の動きに連れて、遮る光の範囲が変わるので、映る街の風景の範囲も変化すると言う趣向です。

実は、私は、自分では上記に書いたような趣向になっているのに気付きませんでした。 作家さんが在廊しておられて、「2台のプロジェクターの間に立ってみてください」と言われて、それで初めて、この展示の仕組みに気付いた次第です。

多分、作家さんからの促しの言葉が無かったら、単に白い光が投射されているだけだと思って帰った事でしょう。 作家さんがおられたおかげで、まあ作家さんが意図する所の鑑賞をさせてもらえたわけです。


こう言った時というのは、どこまで指示とか、“こうして下さい”とかを書くものなのか?? 難しい所なのかな〜??と思いました。 今回の展示は、何も指示とかを示した物が無かったので、これだと結構、作家さんが“こういう風に見て欲しい”という見方に気付かないままになってしまう可能性は高いと思います。 もちろん作家さんやスタッフの方が常時詰めていて、来廊者に毎回指示を出せるなら話は別なのですけれど、そうでないと、全く白紙の状態から、今回の鑑賞の仕方に気付ける人はいないかもしれない・・・。

しかし、あまりにも“こういう風に見て下さい”と指示の看板を貼り付けておくのも何かを強制しているみたいで、あまりいい気分の物でもなさそうな気がします。

なので、なかなかいい落としどころを見つけるのは難しそうな気がしました。 やはり誰かが常駐して、適時柔らかく促すと言うやり方が一番いいとは思います。 ただ、それもまた難しいものがあるのは確かなのですけどね・・・・・。


作品としても中々面白いと感じたのですが、今回は、展示方法の方に意識が行ってしまっていたので、こんな感想文になってしまいました。
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2008年03月29日

マンガ> 「竹光侍」4巻 作:松本大洋,永福一成

「竹光侍」,4巻,作:松本大洋、永福一成(原作),ビックスピリッツコミックススペシャル、小学館です。
松本大洋さんが描く時代劇の第4巻。

この巻では、主人公宗一郎の故郷の話,宗一郎が故郷信濃国を後にするにいたる顛末や、故郷の藩の内情などが前半で描かれています。

意外であったのが、正直この作品で、この設定がくるとは思いませんでした。 これを書いてしまうとネタバレも行き過ぎかと思うので書かない事にしようと思いますが、まあ個人的には意表を衝かれた気分です。 しかし、この作品のことですから、この設定もあたり前の使い方、落とし方はしないと思うので(というかそれを希望したいので)まあどう展開してくれるか楽しみに待っていようかと思っています。

この巻の圧巻は、やはり宗一郎の殺陣のシーンだと思いました。 この作家さん,松本大洋さんのアクション,バイオレンスのシーンの迫力は独特の力強さがあると思っていたのですが、今回の殺陣のシーンは、派手な擬音とかが排除された、静かな、冷徹な描写で、それだけにぞっとするほどに鬼気迫る迫力を感じさせるものでありました。

もう一つ意外で、私の予想,思い込みが外れたのが、前巻ですっかり死罪にされて、もうこのお話しからは姿を消したと思っていたキャラクター、木久地真之介がまだ生きていたことで、更にお話しに絡んで来そうであったこと。 大体、1,2巻では、ほぼ1巻で一つエピソードとして区切りが付いているという印象であったのですが、どうも、これからは、色々長く引っ張っていきそうな気がしています。

この4巻も全体として、これ以降の大きな展開のための序章のような印象を受けました。
何にせよ、次が待ち遠しい気分で、早く5巻が出てくれないかなぁと、気が早いのですが、そう思っています。

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2008年03月26日

本>時代・歴史 「人間の剣 戦国編」(一),(二) 作:森村誠一

「人間の剣 戦国編」(一)、(二),作:森村誠一,中公文庫です。
拵えは粗末ではあるが、その刀身は名状しがたい色合いを持ち、青い炎が噴きあがるかに見え、そして持つものに不思議な気力、力を与える。
その時々、その剣を持つべきものに次々と渡っていく妖剣“無銘剣”,その変遷に託して、歴史の様々なエポックを描いている作品。


この戦国編2巻では、桶狭間の少し前から、戦国の終わりと言える豊臣家の滅亡までを描いています。

この作品、タイトルだけは、結構前から知っていたのですが、どうも妖剣“無銘剣”と言う辺りで、変に先入観を持ってしまって手を出すのを躊躇していました。 なにか、伝奇的な,オカルトみたいな,色合いが強いのではないか?と思い込んでしまっていて、好みとは合わないかなぁ?と感じていたのです。

しかし、読んでみると、そんなことは全く無く、“無銘剣”と言う存在,次々と異なる人に受け渡されていくと言う設定を使って、作家さんの描きたいと思われるテーマ、時代のエポックを作家さんの視点、考えと共に描いているという作品で、“無銘剣”と言う存在自体は、作家さんの主張を描くための小道具の一つというところかと思いました。


この2巻を通して、様々な戦国時代の出来事が描かれていますが、私が特に面白いと思い、興味を惹かれたのが、最初の4−5編の辺り、戦国期の庶民の立場、視点で、戦というものを捉え、実際の戦の結果、庶民がどのように虐げられていたのかを描いていた辺り。 戦国期、戦となれば、軍兵たちは庶民をさらい、それを奴隷として人攫いの組織に売って収入とし、又は身代金を要求していたりしていたこと。 それは敵国の人たちに対してだけでなく、実際には見境無しに、欲望のままに行われていたこと。

またそうして売られた奴隷たちが、遠くポルトガルの人買いにまで売られていたこと。 そうした人身売買も含めた商売と、キリスト教の布教が、ポルトガルの勢力伸張の両翼とみなされていた事等々、結局、勇壮で、きらびやかで、かっこよく見える、戦国武将の戦いなどは、表面にすぎず、常にその犠牲となっていた庶民の苦しみがあると言う辺りが描かれています。


また、後半になると、秀吉、家康辺りが描かれることが多くなるのですが、秀吉の天下統一以降の拡張戦争に対しては、強く批判の気持ちを持たれているようでした。(これには私も同じ気持ちです。) また、家康に対しても、私はちょっと疑問を新たに持ちました。 家康は、少なくとも、秀吉の様に、外国にまで戦争を仕掛けることはしなかったと言う点では、まだましであったと思っていたのですが、家康が、本当に国内の支配を確たるものと出来たのは、大阪夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼした時点といえると思います。 それは家康の死ぬ一年ほど前のことです。

それまでは、彼の支配が、理不尽に過酷な物であったとしたら、一見自分に服従をしているかに見える大名たちが、豊臣家を旗印に仰いで、自分に対して反旗を翻し、徳川家の支配に罅が入るかもしれなかった状態と言えたと思えます。 つまり“何をしても大丈夫だ”と家康が思える状況ではなかったと言えたのではないかということ。

歴史に仮定の話しを持ち込むのは、あまり好きではないのですが、秀吉は、自身が国内の支配を確たるものとし、自分は“何をしても大丈夫だ”と思った時点から、どうもおかしくなっていったように思います。 もし、家康が、豊臣家滅亡後、長く生きたとしたら、自分が“何をしても大丈夫だ”と思ってから長く生きたとしたならば、もしかしたら、家康もまた、無茶な行動を起こしたと言う可能性もまたあるのではないか?と思ったのです。
(たまたま家康は、すぐに死んでしまったためその時間が無かったと言うだけのことだったのでは?と思ったのです)


まあ、秀吉の前例を見ているから、そこは自制したという可能性もまた強いと思いますが、可能性はゼロでは無いだろうなぁ〜〜と思いました。

という感じで、この作家さんの重視している切口などが見えて、結構楽しめました。
手を出してみて正解と思えた作品です。
この「人間の剣」は、この後、<江戸編>,<幕末維新編>,<昭和編>と続いているそうです。 これらにも随時手を出していこうかと思っています。


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2008年03月24日

アート> 「うちゅうのたまご」 piaNPO

地下鉄中央線 大阪港駅から徒歩少しの所にある、piaNPOで今日まで開催されていた「うちゅうのたまご」を見てきました。

このpiaNPOというのは、私は今日初めて足を運んだのですが、NPO活動の拠点施設とのことで、たくさんのNPOや団体のオフィスが入居しているようです。(私はそれも知らなくて、今日、足を運んで初めて知った次第です。)

この展覧会は、アート活動支援をされているNPOでここにオフィスも持っているNPOである“NPO 大阪アーツアポリア”が主催の展覧会。 piaNPOの6階建のビルの空間を利用して、4人の作家さんの作品を展示していると言うものでした。
作家さんは、山岡敏明さん,はまぐちさくらこさん,仙石彬人さん,梅田哲也さんの4人の作家さん。


ビルの空間一杯に展開してと言うのではなく、ビルの空間のポイントをうまく使って、目立たないながらも、空間の雰囲気に上手くマッチしたインスタレーション作品を展示してあるという感じでした。

一番たくさんのポイントで展示されていたのが、“山岡敏明さん”,各フロアのエレベータの前の壁にフォトエスキースの作品+地下に向かう階段の踊り場に映像インスタレーションの作品が展示されていました。 2007年9/2の記事で、「グチック考13 山岡敏明展」の感想を書いています。 今回もこの作家さんが一貫して表現されようとしている“グチック”ということを表現されようとされているようでした。

難しい概念的なことは、置いておくとして(というよりよく分かっていないのです)、画面として、また映像インスタレーションとして、モノクロの画面でなかなか面白かったです。黒のうにゅっとした模様が奇妙な存在感をかもし出しています。


“梅田哲也さん”の作品は、廃材とか廃品を組み合わせて、オブジェを作り、そのオブジェは、展示空間と上手く調和するように作られていて、かつ、電動で微妙に動きがあるのですが、それが滑らかな動きというのではなく、どこかぎこちない、又は不定期な動きが、廃材を使っている質感ともマッチしていて非常にいい感じでした。

“仙石彬人さん”,窓に、レンズ状になるシートをびっしりと貼り付けるというインスタレーション。 視線をう誤解したときの、周りの窓の質感、風景との違いが面白い。


“はまぐちさくらこさん”,1Fのホールに作られたオブジェかインスタレーションかという作品。 この方は、女の子や、動物らしき生き物を描いたり、作ったりされているのですが、色的には、可愛い、きれいな色使いと言えなくもないのですが、その表情、フォルムなどが、今風の言葉を用いさせてもらうと、キモカワイイ風とでも言うのでしょうか? 素直にきれいに描いてあるというものではありません。 きつい表現になるかもしれませんが、女の子の目などの表情などは、正直“狂的”とすら形容したくなるくらいに私には思えました。

個々の作品も良かったですが、もっと印象に残っているのが、作品,建物の空間,それに加えて窓から見える南港の風景,全部あわせて、いい空間を作り出しているなぁと感じて、それが非常に印象に残っています。 このpiaNPOの建物も、やや古びた感のある建物で、窓から見える風景も休日の南港の風景だけにどこと無く淋しげに私には感じられ、それらが全部、トータルな印象として見る側に感じられるようになっていると、思えました。

なので、なかなかいい展覧会であったと思います。 初めて行った場所でしたが、足を運んで正解の展覧会でした。
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2008年03月21日

アート> 「2人展 堀尾貞治×永田収 SANPO ExhibitionU」 アートスペース海月文庫

地下鉄 西中島南方駅から歩いて7〜8分。 アートスペース海月文庫で開催中(3/19〜3/24)の「2人展 堀尾貞治×永田収 SANPO ExhibitionU」を見てきました。

この展覧会は、堀尾貞治さんの作品と、永田収さんの写真+堀尾さんオブジェでインスタレーションにもなっているという感じで展示空間が構成されています。

写真のほうは、堀尾さんとのコラボレーションとなっている感じのもあれば、堀尾さん+そのお仲間さん達の写真とかもあって、これは永田さんの作品と言っていいものもあるかと思いました。

永田さんの写真は、一つの画面の中に存在している団扇とか、四角の紙の枠とか、風景写真の中でも近景の緑だけとかが、奇妙に感じるほど鮮やかに、蛍光か?と思うほどの鮮やかさで画面に存在していて、そのコントラストが非常に印象に強く残っています。
(どうやってこの写真画面を作ったのか、写真の技法に疎い私にはよく分かりませんでした。 単純ですが、CG等のデジタル的な画像処理の技法を使用されたのか?と思ったくらい)


堀尾さんの作品は、色々な点々が打たれた紙が、壁面一杯に貼られている感じ+写真に堀尾さんのオブジェのコラボで一つの作品となっているという感じ。
石を写した写真の上に、実際に石を乗せている作品なんかが面白かったですね。

しかし、一番インパクトがあったのは、DMにも使われていた写真でしょうか?堀尾さんが自分の頭を手拭いで木に縛りつけているという写真で、見たときに思わず、“これでどう散歩しようというのか???動けないではないですか???”と突っ込みたくなる面白い、インパクトある写真でした。


ちなみに今日はちょっと、寒さが戻った感じでしたでしょうか? ちょっと厚めの上着に戻して外出した今日でした。
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2008年03月20日

本> [追悼]− アーサー・C・クラーク −

昨日の新聞記事で、SF作家のアーサー・C・クラークさんが亡くなられたとの記事を目にしました。 この方も、非常に好きな作家さんで、このブログでも過去5つの作品の感想を書かせていただいています。 いい作品を読ませて戴いたという感謝をこめまして、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

この方の作品は、「2001年宇宙の旅」のシリーズとか、「地球幼年期の終わり」とかある種哲学的な、壮大な世界観の作品もありましたし、「渇きの海」,「楽園の泉」等々緻密な科学知識、検証に基づいたハードSFの魅力を堪能できる作品もありました。

その他、短編作品も好きな作品が多く、今も私の本棚には、20冊近くこの方の作品がずっと置いてあります。 多分、よほどのことが無い限り処分はしないと思っています。

繰り返しですが,謹んで、お悔やみ申し上げます。
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マンガ> 「それでも町は廻っている」4巻 作:石黒正数

「それでも町は廻っている」4巻,作:石黒正数,ヤングキングコミックス,少年画報社です。 2007年8/21の記事で、この作品の1〜3巻を読んでの感想を書きました。
その時の感触が、まあまあという所であったので、昨日この作品の4巻が発売されているのを見て、早速購入し、読んでみました。

(しかし、前の記事で、マンガネタが久しぶりだとか書いていて、あれを書いていたときは、また次のマンガネタまで間が空くだろうなぁ〜とか思っていたのですが、意外にも2ネタ連続でマンガネタになってしまいました。)

主人公の女子高生、嵐山歩鳥の日々の出来事をやんわりほんわか描いているコメディ作品。 前3巻を読んでの感想は、ちょっと色んな要素を取り込みすぎていて少しとっちらかった感もあると思いましたが、この4巻は、あまり突飛な設定とか、展開とかは無くて、日常の出来事を超えない範囲でお話しが展開されています。

全体の感想としても、まあまあ良かったと言うところ。 面白かったエピソードとしては、「一ぱいのミシンそば」,しんみりした展開で締めるのかと思いきや、最後きっちり笑いを入れて落としている所が良かったです。この作品らしい味を崩さない終わり方と思いました。 もう一つは「激突!妖精VS死神」,これも展開と最後の落ちとの落差が面白かったエピソード。 熱血スポーツ物的展開であったのにこれも意外な締め方でしっかり笑いで落としてくれていました。

すごく感動というわけでもなく、そこまで大笑いというわけでもない所なのですが、まあこれはこれで一つの味わいの作品と思います。 次も出たら、とりあえず買うかな?と思っています。
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2008年03月19日

マンガ> 「絶対可憐チルドレン」12巻 作:椎名高志

今日発売の、「絶対可憐チルドレン」12巻,作:椎名高志,少年サンデーコミックスです。
(振り返ってみると、久しぶりのマンガネタです。 前のマンガの雑感記事が1/31投稿なので、約1ヶ月半ぶりのマンガネタ。)
この巻は、前巻からの続き、“黒い幽霊”のエピソードと“ビー・マイ・フレンド”,“ランチをめぐる冒険”の3つのエピソードが収録されています。

“黒い幽霊” と“ビー・マイ・フレンド”は、新たに登場した、敵性組織らしい黒い幽霊から送り込まれたエスパーとの戦いを描いているもの。 “黒い幽霊”はシリアス気味で、且つ以前のエピソードで出てきた、超能力のパワーを増加させるブースター機能の新たな機能が発現して来たりと、お話し全体の中での次の展開の伏線になる要素が色々出てきています。
逆に、“ビー・マイ・フレンド”は、コミカルな味わいで、随所に小ネタなギャグが散りばめられています。 (個人的に好きだったのは、走れメロスネタでした。)


“ランチをめぐる冒険”は、ちょっと一休みという所でしょうか、箸休め的に短い、チルドレンが学校の遠足に行った際のトラブルのエピソード。 まあ、ちさとちゃんの動揺っぷりが面白かったという感じでしょうか。

この巻の途中から、各話の始めに、1ページに4コママンガが2つ載っている“増補版SUPPLEMENT”というのが載っていて、これも結構面白かったです。

毎度書いています、表紙絵の感想ですが、今回は、局長と柏木さんでした。 ぱっと見た時は、地味に思えたのですが、落ち着いた茶色の背景色、局長と柏木さんの服も茶系の色で肌色の色味もバランスが取れていて、全体として非常にいい感じになっていると思いました。 (後、チルドレンが、現在の姿ではなく、3人が最初に出会った、幼い時の姿で入っています。 これは初めてですね)

帯には、この作品がアニメ化されるという情報が書かれていました。 4/6TV放送スタートとのことです。
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2008年03月17日

アート> 「CONCHA/ヨハネス・レンハルト」 京都芸術センター

阪急 烏丸駅近くにある、京都芸術センターで開催中の「CONCHA/ヨハネス・レンハルト」を見てきました。 3/8〜3/26の開催です。

この作家さんは、ドイツの方で、チラシによると、京都芸術センターのアーティスト・イン・レジデンスで滞在・制作をされた作品の展示となったもののようです。
南ギャラリー,北ギャラリーでの展示でした。


南ギャラリーの方では、絵とか、写真とか、簡単な言葉が書き記された紙とかが組み合わされて、壁面一杯に展示されている作品がまず目に入りました。 言葉は、英語で、かつシンプルな単語と短い文でのメッセージであったため、私でも大体の意味は掴むことが出来ました。 概ね、肯定的なメッセージというか、人を、生きることを肯定しているというか、それらに対するポジティブなメッセージという感じでした。

その他の作品は、静止画の連続写真で制作の様子を見せていたり、色々、作家さんが、思うこと、考えていることを、結構ストレートに提示し、伝えようとしているかのようでした。


一転して、北ギャラリーの展示作品は、大きなオブジェ作品がドンと一つ。 何となくカタツムリの貝殻のカーブ、螺旋を思わせるようなフォルムのダンボールで作られたオブジェでした。 外表面は、藍染した紙が貼り付けてあり、色的には落ち着いた色合いで個人的には好みでした。 ただ、その貼り方が、紙を手でちぎった跡を残して目立つように貼ってあったので、魚の鱗みたいな印象で、表面は少しうるさいと感じる所がありました。
もっと、フラットな表面なら、もっといいと感じたのでは?と思いました。
(でも、どちらかといえば、北ギャラリーの展示のほうが好みではありました。)


タイトルの“CONCHA”は、チラシには“貝殻”と書かれています,辞書で見てみると、耳殻, 外耳と出てきました。 どちらにしろ、これらの持つ螺旋のカーブのイメージがあるのではないか?と思いました。

余談ですが、今日の京都芸術センターは、結構人がたくさんいて賑わっていました。 何かと思って案内の看板を見てみると、イベントとして,音楽のコンサート,更に、踊りのイベントも今日が開催日と展示されていたので、その参加者の方もおられた結果のようでした。
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その他の雑感> 「春やなぁと、、、思ったこと」

このところ、寒い!ということも段々と少なくなり、逆に日中は、服装によっては少し汗ばむくらいにで、ここ2週間くらいで、そろそろ春と言ってもいいところかなぁ?と感じることが多くなってきました。

気温的には、そんな感じを受けておりましたが、今日は、その他のことで、“春やなぁ”と感じたことがあったので、ちょっとそのことを書いて見たいと思います。

今日は、街のあちらこちらで、ふと見た、雑草たちが非常に生き生きと、元気よく伸び始めていると感じました。 それで思わず“春やなぁ〜”と思ってしまった次第です。

私は、下町に住んでいるので、今日私が見た雑草は、野山とかに生えていたわけではなく、街の隅っこに今の所はひっそりと、しかししっかりと、と言うか、悪く言えばしぶとく、芽を出し、成長を始めているという感じです。


街路樹の根元の土の部分に、ハコベかな?と思った草が、10cm位の高さに既に伸びていましたし、アスファルトの割れ目からも幾つかの草が成長していました。 また、面白いと思ったのが、排水溝の下に根付いたタンポポみたいな感じの雑草が、排水溝の鉄の網状の蓋の隙間から、葉を中空に向けて伸ばしていました。

別に、何時も見ている雑草ではないかというところなのですが、今日見たこれらの雑草たちは、緑の色味が違っていて、やや薄い緑、少し黄緑を感じさせるような色味で、如何にも若々しく、正に“今、成長している”と感じました。 (だからこそ、“春やなぁ〜”であったのです。)


まあ、こんなところで春を感じなくても、もっと他に何かあるだろうと、我ながら思わないでもないのですが、こういう隅っことか、端っことかに妙に気持ちが行く人間なので、自分らしい春の感じ方ではあったかな?とは思っております。
ラベル: 雑草
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2008年03月16日

アート> 「アウトサイダー・アートのこと,雑感ふたつ」

3月3日の記事、アウトサイダー・アートの展覧会である、「アール・ブリュット/交差する魂」の感想を書きました際、色々考え込むことがありましたと書き、その内のひとつとして3/4に“雑感ひとつ”ということで、まあひとつ考えを書かせていただきました。

その後の、考えたことの二つ目として、今日はもう一つ書かせていただきます。
展覧会を見たときに、会場の一部屋では、ビデオの映像が流れていました。
その映像のナレーション,セリフは全て英語であった為、私には正確な意味までは掴めなかったのですが、大まかな感触だけは捉えられたかな?というところでした。

で、その内容は、私がいつも思っている、“見て、そのままに感じればいい”という単純極まりない考えにちょっと冷水を浴びせられた感のあるものでした。

では、どういう映像であったかと言いますと、ある一人の、もうおじいさんと言ってもいい年齢の方が自転車に乗って街をゆっくり走っています。 おじいさんの体、頭、自転車の前かご等には、きれいなドレスを着た、西洋人形が置かれていたり、貼り付けられていたりします。 またおじいさんは、背中にはなにやら自分の考えを書いた板を背負っています。

こんな状態で、街をゆらゆら自転車で走っているという映像が流れています。 おじいさんは、時々意味不明の言葉とかを発しながら走っています。 その後、なにやら、女性が現れて、おじいさんのつけている人形や、背負っている板に書かれたおじいさんの考えがどの様なものであるかを説明しだしたのです。
もちろんそれも英語なので、細かいニュアンスまでは理解できませんでしたが、大まかには、このおじいさんが、この方個人としてのストーリーを持っていて、その世界観を書いてあるのだということくらいは理解できました。


で、これを見て、私が思ったのは、何の予備知識も無しに、このおじいさんが、街で私の横を走ったとしたら、私はどう感じ、どう反応するだろうか?ということです。 どう考えても、私は、このおじいさんを、表現者、作者とは見ないだろうと思いました。 それどころかむしろ“変なやつが来た、かかわらないようにしよう”と思い、ちょっと身を避ける行動に出るでしょう。

私は、作品に接したとき、出来るだけ素直に感じたい、そしていいところを吸収したい、自分の栄養としたいと思っています。 しかし、そう思って、それを実行できるのは、美術館、ギャラリー、又は、作家さんが展示、表現の場ですとあらかじめ通知された場所、時間でのことに限られたことでしか、自分は実行出来ていなかったのではないか?ということを思い至ったことでした。   それ以外の場所においては、自分は、世間一般の“あたりまえ”に縛られてしまっていて、平明に物を見る目、感覚を閉ざしてしまっているのではないか?と。

それを考えると、自分の“自由に見て感じる”という考え自体も、結局は、自分で、アートの展示場所ですと、限った場所でのみの自由であって、常に、平明な感覚、目を私は持っていないのだろうということに思い至ったのです。

これは、私的には、とても恥ずかしい思いでした。 自分はアウトサイダー・アートが好きだと言いながらも、私は、所詮誰かが選んで、“これがいい作品ですよ”としてどこかに展示された作品を見て,感じて,そして“いいなぁ〜”と思っていたに過ぎないのです。
常に平明な目で、私の前に現れる事々を見ていたわけではないのです。(自分の目で見出していたわけではないのです)

正直に言いますと、そんなに常に、“これは新たな表現かも??”と言う目で日常の全ての出来事を見るのは不可能だと思います。 現実問題として、そんな気分で日々いると、とても精神的に持たないでしょう。 なので、これは難しい問題を含んでいるとは思うのですが・・・。 とりあえず自分が思っているほどに、平明な目で、物事を見ているわけではないと改めて気付かされた出来事でした。


このことは、このこととして、反省して、気持ちに刻んでいないといけないことだろうと思います。 そして可能な限り(自分で出来る範囲で)何とか平明に物を見て感じることが出来るよう努力することなのでしょうね・・・。 どうもそれくらいしか、次のアクションが見つからない感じです。

とにかく、自分にとって、大きな反省点を気付かされた事柄でした。
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2008年03月12日

本>ノンフィクション 「日本の10大新宗教」 作:島田裕巳

「日本の10大新宗教」,作:島田裕巳,幻冬舎新書です。
伝統的な宗教ではない、いわゆる新興宗教とか新宗教といわれる流派の宗教を取り上げ、その成り立ちや、現状分析等をおこなっている一冊。
タイトル通り、取り上げられているのは、日本のそれで、著者がセレクトした10の宗教に関して記述されています。


細かいものまで言い出したら数知れないくらいあるようなのですが、一応ここで語られているのは、“カルト”といわれるくらい反社会的なものは、外されています。 なので、オウムとかはこの中では語られていません。(ただどこまでならカルトなのかの線引きは、非常に難しいこととは、最後の部分でこの著者さんも認めておられますが・・)

世間的に非常に有名で、私でも聞いたことがあるもの、この作中で初めて名前を目にしたもの、その知名度は様々です。 基本的には、明治以後にその始まりがあり、またほぼ全ての新宗教では、全く新規の教義や神を定義しているのではなく、既存の何らかの宗教の概念を借りているものの様でした。

その中でも特徴的に思えたのが、創価学会に関して、創価学会が、“勝ち負け”と言う概念を重視していること、自身の宗派を絶対視する傾向が強く、他を異端視、邪教視する傾向が強いらしいという所でしょうか。 同じ、日蓮宗を元にしている他の新宗教と比べてもその傾向は強いそうです。

私は、宗教的なことに関しては、かなり不真面目で,いいかげんで,不信心で,という人間なので、自分としては現世利益とかちらつかされても、“お布施を出せ”とか“何かを買え”とか・・・、まあ金を取られようとした時点で、引いてしまうと思うのですが、それでも、それぞれの宗教がそれぞれ結構な信者数を獲得しているわけなので、まあ惹かれる人は惹かれるのでしょうね・・。 人とか周りに迷惑がかからない分には、別に何を信じようとかまわないのですけれど、まあ正直な所個人的には、あまり理解出来ない心持ではあります。

変に懐かしいと思ったのが、その活動のひとつに、人の頭の上に手をかざして何かお祈りをしたりするやつ。 小さい頃は、駅のホームなどでも結構これをやっている人を見かけたことがあります。 最近は全然見ませんね。

ひとつ驚いたのが、GLAという宗教にSF作家の平井和正が教祖のブレーンとして深く関わっていたらしいこと。(今もそうなのかは知りません) で、この作家さんの作品幻魔大戦がこのGLAがかなりモデルになっているとの事でした。
昔、読んでいました。“幻魔大戦”とか“ウルフガイ”とか。しかしどちらもいつまで経っても決着も収束もしないし、そのうち興味がほかに移って、すっかりこの作家さんの作品は読まなくなりました。 今はどうなっているのでしょうかねぇ?(もはや調べてみる興味も失せてしまった感じですが・・・)


まあ、色々なことが書かれていますが、どの道、宗教であるにせよなんにせよ、組織になってしまうと、それを維持するために、結局のところ集金を如何にするかは逃れられない部分であるかのように思いました。

多少記述の内容に疑問符を感じる所もあるにはありましたが、割と平明な解説になっている著作かと思いました。 さらっと読み流してみてもいいかもしれないと言う一冊という所でしょうか?
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2008年03月10日

本>旅行記・エッセイ 「メコン・黄金水道をゆく」 作:椎名誠

「メコン・黄金水道をゆく」,作:椎名誠,集英社文庫です。
椎名誠さんが、インドシナ半島の大河、メコン川に沿って海まで下る旅の様子、人々の様子を綴った旅行記&エッセイ。 国にして、ラオス,タイ,カンボジア,ベトナムといった国を訪れる旅となっています。

この作家さんの作品を読むのはこれで3作目ですが、前の2作が古い作品であったのに対し、この作品は、新刊で出ていたのを購入したので、最近の椎名さんの作品です。
巻末の初出の情報を見てみると、2003年から2004年にかけて連載された作品との事。


文体の印象としては、怪しい探検隊シリーズより結構おとなしくなっているかなぁ?という印象は持ちました。 しかし、所々に、私の好きな、この作家さんの独特の擬音表現なんかが散見できて、やはり少しコミカルで、楽しくやませてくれる作風は健在という印象です。 やはり、楽しく読ませてもらいました。

山岳民族の作る酒に“なんという名の酒か?”と聞くと“名前は無い、ただ酒というのだ”という返事とか、東南アジアの甘い、濃厚な味のビールが作られているのはなぜか?の考察とか、フー(またはフォー)という米で作られた麺料理のこととか、市場で売買される魚のこととか、まあ、旅していく中で様々に見聞し、出会った,体験された事々を綴られています。

印象に強いのは、メコンの河口近くで行われるドンバイ漁の模様で、網を仕掛けておくのですが、その為、河の中に作った竹の仕掛けの上に、同じく竹で作った小さな小屋に人が常駐して、網の面倒その他作業をしているという事、その係りの人は、メンバーの中で数日交代とかで担当するのではなく、固定の二人が詰めっきりで、その二人は月に2日しか陸上に上陸できないということ。 写真が載っていたのですが、本当に、ちょっとバランスが崩れたら、河に落ちかねないような危なっかしい造りの粗末な小屋で、そこにひたすら常駐して、日がな一日河の上で作業なんて、ちょっと私では、耐えられないような労働条件ですね。 色々事情があるのでしょうが、大変な仕事だと思いました。

裏表紙を見てみると、この集英社文庫には、椎名誠さんの作品がたくさん出版されているようです。 本屋さんに次に行ったとき、どれくらい並んでいるか、一度見てみようか?と思っています。 色々読んでみたい今の気分です。
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2008年03月09日

アート> 「新山光隆展」 不二画廊

地下鉄 堺筋本町駅近くにある、不二画廊で今日まで開催(3/3〜3/8)の「新山光隆展」を見てきました。

この方の作風は抽象平面、基本的な構成要素は、一見した感じは、まるで、色付きの蝋を流したり、ドロッピングで垂らし込んだりした感じで画面が構成されています。

しかし、ひとつの画面内で使用されている色数は少なく、且つ同系色でまとめられているので、うるさい感じはなく。 まとまりがあるという印象。


作家さんがおられたので、素材についてお聞きしてみたのですが、蝋ではなく、アクリルのメディウムを使用されているとの事でした。 こういう質感のメディウムもあるのですね。

画面は、何度もメディウムの流し込み、たらしこみが重層的に何度も重ねられているので、一層が半透明くらいの色の付き方なので、下の層の具合が透けて見えて、非常に深みを、奥行きを感じるいい画面でした。 個人的にとても好みの作風でした。


一番いいなぁと思ったのが、一番奥の壁面に展示されていた縦長の赤〜オレンジ系統の色でまとめられていた作品と、正面の壁面の横長の緑主体の作品。 この2作が非常にまとまりも、バランスもよく、見ていてとても素直にいいなぁと思えました。

細かい技法の詳細まで、見ているだけでは分からなかったわけですが、メディウムの重なり具合も一律に層で重なっているわけでもなく、かなり工夫があるようでしたし、刷毛で色が塗られているのも効果的な感じでした。 時間ギリギリ、何とか間に合って見ることが出来たのですが、あせってでも足を運んで良かった展覧会。 今日はいい作品に出会えました。
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2008年03月07日

本>文芸 「阿Q正伝・狂人日記(吶喊)」 作:魯迅

「阿Q正伝・狂人日記(吶喊)」,作:魯迅,岩波文庫です。
中国の作家さん、魯迅の短編集。 元々のタイトルは吶喊(“とつかん”と読むそうです)。

全15編の作品が収録されている短編集で、阿Q正伝,狂人日記は、その中の収録作2編です。 タイトルに採用されたのは、おそらく有名な作品だからでしょうね、私でもそのタイトルを知っていたくらいですから。

この魯迅と言う作家さんは、名前だけは知っていました。 ただ歴史の教科書に名前が出てきたのを知っていたというだけで、作品を読んだのはこれが初めてです。
手を出した理由は、単純な話で、古本屋でパッと表紙が目に付いたので何となく買って見ました。


最初に書きますが、以下の感想は、読んだ私が感じたことだけで書いた文章ではありません。 一応、読む前は予備知識なしで、通読した事はしたのですが、どうも面白味というか、面白いポイントが分からなかったこと、また、どうも書かれた歴史的な経緯もある程度知らないと、なんとも感想の持ちようが無いという気がしたので、Webでですが、少し、この魯迅さんとその作品について、作家さんの略歴や、書かれた時代背景、他の方の書評等を読んでいます。 なので、そういった他の方の意見等にも影響された上での感想になっています。 (いつもは、勝手に読んで、勝手に感じたままを,ただ書いているだけと言うのが私のパターンなのですが、これだけはちょっと違っています。)

前置きが長くなりましたが、感想を書きますと、まず良かったのは“狂人日記”,周りの人間は全て食人をしようとしている、自分を狙っているという妄想に囚われている狂人の目で周りを見た様を描くことで、逆に我々が普通だと思っている社会構造や、人間関係の矛盾や問題を感じさせるように思えた作品。

その他の作品は、まあ、全体として感じたこととして書いて見たいと思いますが、一様に、社会の硬直した、階層化されているという辺りの問題を抉っている様に思えました。
参考にさせてもらった資料等によると、その当時の中国社会が抱えていた、儒教的な考えを利用して築き上げられた封建社会の問題点を指摘しようとしているとの事でした。

作品の中にも革命勢力とかがバックグラウンド的には出ては来るのですが、それにより既存の社会が一度崩れるとか言うわけではなく、支配的な階級の存在が、入れ替わるだけで、支配的な階層と被支配的階層の位置関係は、全く変わっていないという印象です。 なので、読んでいても非常に重苦しい読後感のものが多かったです。


もうひとつ感じたのは、描かれている人々,主役だけでなく、お話に出てくる登場人物全体が、どうにも、他者に対して“容赦が無い”という印象を受けました。 “小さな出来事”の様に、人に対する思いやりを描いているものもあるにはありますが、全体で見れば、全ての登場人物が、他者に対して非常に攻撃的で、とげとげした対人関係が常態化しているという印象を持ちました。 読後感がなんとも重いのも、その辺りに救いが感じられなかったからではないかと思っています。

これらの作品は、中国人の作家さんが中国社会の問題点を描こうとされた作品のようなのですが、読んでいて、なんとも違和感を覚える、どこに共感していいのか分からないような感触を持ってしまいました。 正直、中国の作家さんの作品を読んだのはこれが初めてのような気がするのですが(教科書とかを除いては)、他の外国の作家さんの作品を読んでもここまで取っ付きにくい感じを受けることは無かったような気がします、何かしら共感したり、面白味を見つけることが出来ていたような気がします。

もちろん、この作品集の感想だけで、このようなことを思うのは危険なことであるのは承知しています。 この作品で描かれている中国社会が今の中国社会と似ているかどうかすらも、私は全く知らないわけですから。 しかしながら、もしこの作品集で描かれている問題点が、今も生きているとするならば、地理的には隣国であり、また、古代の昔から、日本にとって文化と知識、技術の卸し元であった関係の深い国ではありますが、そこに生きる人々の心情を、私が理解するのは、相当に困難で,難しいことなのではないかと思ってしまい、これも気分を暗くしている要因のようです。


読んで損は無かった作品ですが、読後感はかなり重いものとなってしまいました。
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2008年03月05日

アート> 「アウトサイダー・アートのこと,雑感ひとつ」

ひとつ前の記事で、アウトサイダー・アートの展覧会である、「アール・ブリュット/交差する魂」の感想を書きました。
その中で、珍しく考え込んでしまった、というようなことを書いたのですが、色々考えが頭を巡った中で、まあひとつだけ、こんな所かなぁ?と落ち着いたことがあるので、まあその事を書いて見ます。
(どうも結果として、“下手の考え休むに似たり”という所なのですけれど・・・)


アウトサイダー・アート(又はアール・ブリュット)は、その定義としては、正規の美術教育を受けていない作家さんの作品ということ、さらに、“いかなる文化的社会的認知や賛辞にも無関心であること”ということもあるようです。

この“無関心であること”というのは、非常にそうであることが難しいことです。
どんな作家さんでも制作をし、表現をしようという方で、全く、他人の評価が気にならない方、認められたいと全く思っていない方は、まずいないのではないでしょうか?


アウトサイダー・アートの作家さんでも、その死後の作品が発見されて、初めて作品が他人の目に触れ、それが評価されたという方もいらっしゃいますが、施設などで制作する姿や、制作した作品が、スタッフその他誰かの目に留まって、そこから評価や発表されるようになった作家さんもいらっしゃいます。

そこの段階で疑問になるのが、結局は、誰がその作品が“良い”と評価するかというと、それは、誰か施設のスタッフであったり、その作品を見た作家さんや評論家さんであったりするわけで、それらの方々のフィルターから漏れてしまった作品は、日の目を見ないまま消えていくわけではないか?(作家さん自身はそういうことに無関心であるわけですから) で、そういった作品もおそらく世の中には山のように存在している・・・


私などは、結局、誰かが選択して展示した作品を見ているに過ぎないわけです。
私にも、好みの作風とかあるわけで、大体のアウトサイダー・アートの作品は好きなわけですが、それでも“いいなぁ〜”と感じる度合いの差はあります。
私にとっては、ものすごくいい作品でも、発表に場に取り上げられなかった作品であれば、永久に目に触れる機会は無いわけです。

今、評価されている、又は目に触れている作品がアウトサイダー・アートの全てだなどと思っているととんでもないということだということだけは肝に銘じていたほうが良さそうです。

もちろんこういう問題は、アウトサイダー・アートの問題に限らず、全ての制作・発表、表現の問題であるのは承知しています。


しかしながら、現実的な回答として、今書いたような現実はおそらくあるのだろうということは承知した上で、ともあれ私としては、見ることが出来た作品を,“私のいいと感じた作品が私にとってのいい作品”と思って見て、感じていくしかなく、私はその感触を感じ、それを蓄積していくのでしょうね、それを私の栄養にさせてもらうという所かと思います。
ラベル:芸術 アート
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2008年03月03日

アート> 「アール・ブリュット/交差する魂」 ボーダーレス・ミュージアムNO-MA/旧吉田邸

JR近江八幡駅からバスで大杉町バス停まで、そこから徒歩5分の所にある、ボーダーレス・ミュージアムNO-MAで開催中の「アール・ブリュット/交差する魂」を見てきました。
2/28〜5/11の開催です。 このボーダーレス・ミュージアムNO-MAとそこから歩いて7-8分くらいの旧吉田邸の2会場での開催です。


実は、この展覧会を見て、いつもは作品を見て、感じて、それをそのまま感想として書いているだけの、アホアホな私が、ちょっと考え込んでしまっています。 色々な考えが頭の中を巡ってしまっていて、ちょっと今収拾がつけられていない状態です。 時間が経って、落ち着いて、考えがそれなりにまとまったら、何か書くかもしれませんが、今日のところは、ただ作品に接して、感じた感想を、素直にそのまま書いて見たいと思います。

この展覧会は、スイス,ローザンヌにある、アール・ブリュット・コレクションの作品と日本のアウトサイダー・アートの作家さんの作品を展示している展覧会。
アール・ブリュットとは(生の芸術)を意味するもので、最初にこれらの作品の魅力を認めたのは、フランスの、ジャン・デュビュッフェさんだそうです。 精神障害や知的障害を持った人の作品、小さな子供の作品等、規制の美術教育を受けていない作家さんの作品のことをそう呼んで、作品として評価したという所から始まっています。
今は、主にアウトサイダー・アートと言う言葉が、一番使われているようですが、私が、イギリスの人と話しをしてみたとき、それはエイブル・アートというよと教えられたこともあるのですが、まあ、今は大体アウトサイダー・アートで通るような感じですね。


今回の会場の“ボーダーレス・ミュージアム”と言う名称もアウトサイダー・アートをその他のアートで線引きされている境界を取り払いたいという意味合いが込められているのかもしれません。 しかし、色んな言葉が出てくるので少々、戸惑いがあるのもまた確かです。

さて、今回の会場ボーダーレス・ミュージアムNO-MA&旧吉田邸は共に古民家をそのまま生かした家構え、内装になっていて、いわゆるホワイトキューブの空間ではありませんでした。 しかし、濃い茶色の木材で構成されている壁面、床面は、非常に落ち着いたいい空間で、気分的にも落ち着いて、作品と対峙することが出来ました。 なので、これはこれでなかなかいい空間と思います。

今回特に、いいなぁと感じたのは、まずは旧吉田邸に展示されていた二人の作家さんの作品がとてもよかったです。 インドのネックチャンドさんの作品、白のタイルの壊れたものを組み合わせて鳥や、人間のオブジェを作り上げている物。展示場に展示さている作品だけでは、そんなにすごいとは思わなかったのですが、会場でビデオ放送されていた、インドでの彼の展示状況を見てみると、多くの人物像が林立する濃密で異様な迫力に満ちた空間が展開されていてビデオの映像だけなのですが、結構圧倒される世界が構成されていました。
今回の私の一番のお気に入りであった、澤田真一さんの陶器のオブジェ、表面にイガイガの模様がびっしり生えていて、見た目のイメージは、椎の実型のとげとげがびっしり生えていて、また形も独特で、8本足くらいのトカゲとか、その他意味不明の何かが創られています。 見る側をぐいっと惹きつける力に満ちている感じでとにかくすばらしかったです。

平面の作品で、特にいいなぁと思ったのは、アロイーズさんの作品、自身の満たされるはずの無い恋を、自身の妄想のような形で画面に描いて残していた作品との事で、一見幸せな男女の姿を描いてはいるのですが、それゆえに、どこか、見ているのがとてもつらい、気持ちが引っかかれる感じでした。
同じ感じで、日本の方で久保田洋子さん,どうも、ファッション等、作家さんが興味を持ったものを描いているようなのですが、その描かれている“目”が、私には、狂気を潜んでいるように感じて、見ていて、落ち着かなくさせるものでした。

その他で、強く印象に残っているのは、ひとつの描き方、描く対象に非常に執着していて、それをひたすら繰り替えし(作業が楽になるとかそんなの考えず、愚直に書き込んでいる)、そういった、作家さんの集中力、執着力を感じさせた作品たち。
・ 本岡秀則さん:電車をひたすら規則正しく並べてびっしりと画面に描きこんでいる作品。
・ 喜舎場盛也さん:漢字をびっしりを書き込んで、画面を構成している作品。やはりその執着が、見る側の気持ちを捉えずにはいられない作品かと思いました。
・ 坂上チユキさん:青基調の抽象平面と言っていい画面で、油彩でありながら恐ろしく細密な模様を偏執的とも言えるくらいに、ひたすらに、細かく書き入れている作品。
ここまでやれるもんかーと正直その根気と執着には脱帽という感じの作品でした。


その他、倉庫スペースで流されていたビデオの横に結構無造作に置いてあった壺の荒いつくりなんかも面白かったですね。
全体の展示空間としては、そんなに大きい空間というわけでもなかったと思います。しかし、アウトサイダーの作家さんの作品は小さめのことが多いので今回の空間でも十分でしたし、なにより、古民家の落ち着いた雰囲気の空間で、こちら側もじっくりのんびりを見たれたのは大きいと思います。


大阪からは、ちょっと時間的にかかるので、気軽に行けると言う距離でもないですが、個人的には足を運んで十二分に価値のあった展覧会でした。
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2008年03月02日

アート> 「鷲津民子展」 信濃橋画廊

地下鉄本町駅近くにある、信濃橋画廊で今日まで開催の「鷲津民子展」を見てきました、信濃橋画廊の5Fの2つのスペースを使っての展覧会。  2/25〜3/1の開催です。
小さいほうのスペースのほうには、立体を使ったインスタレーションを、大きい展示室の方は、平面作品(抽象平面)が展示されていました。


両者共に今回変化されているなぁと感じたのが、まず地塗りのやり方とその質感の違いでしょうか? 立体のほうも、平面のほうも、これまで拝見させていただいていた作品では、胡粉を混ぜたりした、落ち着きを持った白地がベースになっていたのですが、今回の作品を見ると、塗料系のものを使ったと思われる艶があり、ややぼってりとした質感で、かつ塗りの刷毛目が結構はっきり分かる形で残っていました。

作家さんに少しお話しを伺うことが出来たのですが、今回は、模様を描いて、しっくりこなかった場合又塗りつぶして、再び描くなどの作業を繰り返されたとの事で、その意味で、見た目以上に、手間隙と、試行錯誤が行われた結果の画面のようでした。

描いてある模様は、これまでと共通で、筒状の模様、コップ状の模様などであったのですが、作家さんとしては、変にそれが具体的なものという印象を与えないよう、陰とかが写実的についたりしないよう注意されていたそうです。 そういう点から考えると、筒状の模様に何かの意味(象徴も含めて)を見出そうというのではなく、純粋に画面、模様の印象を楽しめばいいのではないかと思いました。


どの作家さんも常に工夫されて、作品に変化、幅を持たせようと努力されています。 その姿勢には、本当に頭が下がる思いです。
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アート> 「エミリー・ウングワレー展」 国立国際美術館

中ノ島にある、国立国際美術館で開催中の「エミリー・ウングワレー展」を見てきました。 2/26〜4/13の開催です。 この美術館のB3FとB2Fの一部スペースでの開催です。

この作家さんは、フルネームは、エミリー・カーメ・ウングワレーさんと言うそうです。 オーストラリアのアボリジニの作家さんです。

私は、元々、アボリジニの工芸品とかの作品は、とても惹かれるものを感じているほうで、今回の展覧会も楽しみしていました。 かなりの昔のことでしたが、吹田の万博公園にある国立民俗学博物館で開かれていた、アボリジニの作品、工芸品などに非常に惹かれたのを憶えています。

この方の作品は、抽象平面といっていいと思います。点描,線との組み合わせ,線だけの構成などで画面が構成されています。 カラフルな色使いのものもありましたが、基本的に、一画面での構成要素は少なめで、非常に良かったです。

意外であったのが、展示されている作品の中で、線で構成されている作品の比率がかなり多かったことでしょうか? もっと点描の作品が多いイメージを持っていました。
しかし、その線の作品は非常に良かったです。 黒地に白の線、又は白地に色々な色の線、ストライプ的に構成されているもの、格子模様、のびやかな線、かすれた線、色も色々でしたが、ぐにぐにと不定形に構成されている作品。
それぞれの味がありましたが、それぞれよかったです。


点描の作品も面白かったです、これも色、模様の具合等色々でありましたが、混色をあえて恐れない奔放に描き重ねられた感じで、混沌としているといえば、そういえるのかもしれませんが、むしろのびやかな印象を受けて、やはり良かったです。 どこで手を止めるか?その辺りが、この作家さんの感性かもしれないなぁと思いました。

どの作品も良かったのですが、印象に残ったのが、黒地のキャンパスに描かれた作品が、結構シャープな印象を与えるなぁと感じたこと。
また、最晩年に描かれたという刷毛跡による混色が独特な過去作品とは異なる風情の抽象平面作品も中々良かったです。


アボリジニの社会には、独特の概念,伝統とか、培われてきた表現とかがあって、この方の作品は、それらを土台にされているのは、まあ間違いないところと思います。 しかし、そういうバックグランドの情報なんかはすっ飛ばして、この方の作品は、私の気持ちにぐっと食い込んでくる物があり、画面として、作品として、非常にすばらしいと思いました。
変な屁理屈なしに、純粋に、この方の画面と接して、感じればいいのだと思います。
そういった点で、見に行ってとてもよかった展覧会でした。


私個人的に、好みの作風ということもあるのですが、是非多くの方に見ていただきたい展覧会と思いました。
posted by 大阪下町オヤジ at 03:09| Comment(0) | TrackBack(0) | アートなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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