2010年01月03日

本>自然・科学 「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」 作:ピーター・D・ウォード

今年の2ネタ目としてこれを、
「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」−絶滅も進化も酸素濃度が決めた−,作:ピーター・D・ウォード,文芸春秋です。
一つ前の、「ワンダフル・ライフ」と同じく、生物進化ものです。

今、現生している生物の中で、酸素をもっとも効率的に取り込む機構を持っているのは鳥類です。
そしてその呼吸機構である、”気嚢システム”を持っているのが今の生物では鳥類で、それは恐竜から引き継がれたものなのだそうです。

この気嚢システムというのは、我々が持っている肺の機能の改良版のような感じの機能と構造で、
より大気中の酸素を効率的に取り込むことが出来るものだそうです。
それゆえに、渡り鳥などは、人間では歩くことすらままならない様な高度でも、飛行という恐ろしくエネルギーを消費する
活動を行なうことが出来るとのこと。

で、この作品では、そういうところから更に拡大して、生物が生まれてから、哺乳類が主役となっている白亜紀以後くらいまでの生物の進化とその興隆,絶滅を環境中の酸素濃度の変化とそれを如何に体内に取り込むか?そのボディーデザインが大きな要因をなしていたという論調で生物進化全体を俯瞰しようという作品になっています。

非常に興味深いし、面白い内容でした。 一読する価値は十分にある作品です。
ただこれも、ちょっと注意点を書いておきたいと思えるところがあります。
この作家さんは、”酸素濃度”という一点に着目し、それが生物の興隆に与えた影響を記述されているわけですが、それを重視しすぎていて、全ての生物の進化、興隆がその一点のみで左右されたかの如く書いておられる所があり、その辺りはあまり引きずられないように注意が必要と思いました。

確かに大きな影響を与える因子であるのは確かなように思えましたが、ただそれのみで生物の進化や興隆が
決定付けられるものでは無いように私には思えました。
単純に一言では言えない、複雑な要因が絡まりあって、興隆が起こってきたと言う所ではないのか?と思います。

この作品は、非常に長い時間的スパンでの生物進化を扱っているので、これを読むと、人類の歴史というのは本当に生物の歴史の中のほんの一瞬に過ぎないと改めて思います。
今、人類は、地球上で一番影響力がある生物種でありますが、地球全体の歴史の中では、計測することが難しいほどに僅かな期間生存しているにすぎません。
私が生きている間に人類が絶滅するのは、大規模な戦争を除くと余り可能性が無いように思いますが、地球全体の歴史の中で大きな存在となるかどうかなんて誰にも確かなことは言えないだろうなぁと、この作品を読んで思いました。
恐竜などのように、地球の歴史の中である程度の期間存在していたという存在に人間はなるのでしょうかね??
今人類が滅んでしまったとして、化石が残ったとしても、ほんの一瞬のあだ花のような存在ということになるような気がします。

なんとなく、色々な悪条件が発生しても、科学の力や、人類の英知的なものが駆使されて、人類は生き延びる、またはますます発展していくと何となく思っているように思います。 SF小説や、ドラマの影響でしょうね・・・
でも冷静に、または冷笑的に考えるならば、何億年か先に地球の地層を発掘した存在があったとしたら、
”ちょっとの間、ひどくこのホモサピエンスと言う生物が増殖したんだなぁ・・・”と言われるだけの存在かもしれません。
(というか、その可能性のほうが高いのではないかと思います)

なんだかんだで色々なことを考えさせてくれたという点も含めて、なかなかいい作品でした、これもお薦めです。
単行本で買ったので、2200円くらいした本で、こういう本で内容的に面白くないと、非常にショックが大きいのですが、
これは買った甲斐がありました。


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2010年01月01日

本>自然・科学 「ワンダフル・ライフ」 作:スティーヴン・ジェイ・グルード

え〜〜、長らく記事を投稿していませんでした、、、ネタが無かったわけではなかったのですが、なんとなく後回しにする癖がつき、”今日もええか・・”ということが続いてしまい、結局長期にわたって投稿が滞ってしまいました。
年が変わったことをきっかけに、投稿を再開すべくこの記事を書いております。
今年はこの決意が持続して、コンスタントに投稿できればいいのですが・・・

では、ここから本題です。 今年の最初のネタはこれにしました。
「ワンダフル・ライフ」−バージェス頁岩と生物進化の物語−,作:スティーヴン・ジェイ・グルード,ハヤカワ文庫NFです。

これは、ずいぶん話題になった本なので、読んだ事がある方も多いと思います。
単行本で結構昔に出て、かなり本屋で平積みされていた記憶があります。
去年末、文庫で出ているのを見て購入しました。

この本の内容は、副題のとおり、バージェス頁岩から発見された化石群の、発見当時の見解を覆し、”カンブリア紀の爆発”と呼ばれる、地球の生物史上、その生物種が爆発的に増加(現在の生物種の体構造(ボディーデザイン)がほぼ出揃ったといわれている)がどのような作業の蓄積によりなされたかを、豊富な図とイラストでイメージ豊かに紹介している、ノンフィクションであり科学エッセイでもあるという作品。
NHKのドキュメンタリー番組でこの”カンブリア紀の爆発”が取り上げられたのをご記憶の方もおられるのではないでしょうか? 私も、最初に知ったのは、NHKのドキュメンタリーでした(タイトルは忘れましたがNHKスペシャルの何かであったと思います)

全体としては、かなり良いことも書いてあり、一読の価値がある、なかなかいい作品であると思います。
この作品は、主に取り上げられえている、再構成されたカンブリア紀の生物達のことを記述してあるだけでなく、既存の我々素人が持っている、進化=進歩、又は高度な存在になっている,というステレオタイプな知識や捕らえ方が如何に意味の無いことであるかを説いておられて、この作家さんの主張が100%正しいとはいえないかもしれませんが、基本的な考えとしてはその通りであると私は思いました。

生物進化というものは結局はその時々の環境に適応していくと言ったもので、別に長期的な見通しや、最終的な目的などを持っているわけではないという辺りには非常に同意できます。 ましてやその最終段階が今の現代人であるというわけはないでしょう。 しかし、意外にみんなそういう感触をなんとなく持っているのではないでしょうか?

私は、作中のこの辺りの記述を読んでいて、自分が意識していた以上に、既成概念にとらわれているのを再度認識して、改めて認識をしなおしました。+反省を。。。。

これまで書いたのは、いい点であるのですが、この作品の作家さんの主張や記述にたいして、余り良くないと感じた点もいくつかあります。
まず、バージェス頁岩の化石を最初に発見した人は、ウォルコットさんと言う人で、この方は既存の生物分類の概念に合うように、これらの化石群を解釈されたそうです。
で、その何十年か後にこの作品で描かれている再検討、構成が行われ、”カンブリア紀の爆発”が認められるようになったわけですが、この作品では、わざわざ1章をさいて、このウォルコットさんという人の功罪を長々と書いてあります。 なんだか、わざわざウォルコットという人を悪役に仕立てて、それを再構成した科学者達(作者もその派に属している)の正当性を強調しているかのように私には思えて、ちょっと気に入りませんでした。

西洋人の作家さんなので、自分の主張が正しいと主張するためにあらゆる手段を講じたのかもしれませんが、ちょっとやりすぎのように感じましたし、ウォルコットさんも、事実を誤認したかもしれませんが、こんな風に書かれるほどまでのことなのか?と正直疑問でした。
また、これも西洋人の作家さんが書いた文章なので、結構、自分の主張をぐいぐい”正しいよ!!”と書いてあるような表現でもあるので、多少アクが強いように感じます。 
(そのあたりは多少差っぴいて読んでおかないといけないと思います)

もう一つ、注意が必要なのは、この作品自体がすでに10年以上前に書かれた作品で、この作品で取り上げたカンブリア紀の生物達に対する研究はそれ以後も継続されていて、今も新しい事実、解釈がどんどん出てきており、すでに様々に修正が施されているそうです。(訳者のあとがきによると)
この作品で書かれている結論は、すでに最終的な結論ではないわけで、ウォルコットさんの解釈が数十年後に大幅な変更が加えられたように、この作品で描かれた解釈も様々な新事実が出てくる度に見直しがされるものだと思います。

いくつか注意点や、良くないと感じたことも書いたので、あまり薦められない作品であるように感じられた方もおられるかもしれませんが、そんなことは無くて、上記の点は、読む上の注意点を書きたかったわけで、まあ留意点レベルの話と思います。
作品全体としては、様々に新知識や進化に関しての考え方を深めてくれる、なかなかいい内容だと思っています。 というわけで、興味のある方はいかがでしょう? でも結構ボリュームのある作品なので、じっくり取り組む必要ありです。
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2009年07月28日

本>社会学? 「続・反社会学講座」 作:パオロ・マッツァリーノ

「続・反社会学講座」,作:パオロ・マッツァリーノ,ちくま文庫です。
前に記事を書いた、「反社会学講座」の続編に当たる作品。
今回も経済学や社会学やその他もろもろ、我々がなんとなく情報として与えられていて、なんとなく”そんなものでは”と思っていることに関して、鋭く突っこみながら、コミカルな文体で、そういったことを楽しく読ませてくれている作品。


この続編でも、なんとなく受け入れてしまっている様々な”当たり前”が如何に、そう主張したい人の恣意や欲望に(又は見栄などにも)とらわれているものであるかを、様々に紹介してくれています。

興味深かったのは、経済学や社会学が様々な数式を用いて、その時々の社会現象や未来の予測などを立てていても、その数式の根拠となる、又は前提となる変数は結局その学者の選んだものであり(何を選ぶか+どの程度の数の変数を取り込むか)、またその変動の傾向なども結局はその個々の学者の予測であり、結局のところ社会全ての要因を数式に取り込む事など出来ないのであるから、いろんな予測や理論を打ち出しても実際のところは、当たり外れの大きいものであるらしいこと。

これを読んで私は、天気予報を連想しました。 今、いろんな観測機器の発達や、経験の蓄積などで、予想の確率はあがっているのは間違いないでしょうが、何もかもを当てることは出来ていませんよね。(予想外のことは常におきている)
これも結局は、お天気というのが、地球上(+太陽とかも)の余りにもたくさんの要素が絡み合っているために全てのファクターを組み込む事など到底不可能で、結局”予想”以上のことにはなれていない、そういったことを連想しました。


こういったときには、人や社会や、金の動きは”こうなるはず”と予測しても、人の心など何で変化するか判ったものではないのだから、空論とまでは言いませんが、えらい専門家がこう言ったから、”さあ、大変だ!!”と、それに振り回されてしまうようなことにはなりたくないですね。

他に印象に残っているのが、賞や栄誉を与える側の好意や善意も相手の気持ちを考えないものであれば単なるあつかましい押し付けになってしまうという辺り。 与える側がその行為自体に変なステータスがあると思っていると、変なプライドになってしまい、ひどく権威的になってしまうことなど。
これなどは、私個人としてはちょっと耳が痛い感じでした。
別に私は誰かに何か栄誉なものを与えられるような存在ではないのですが、相手に良かれと思ってやったことも、時に相手にしてみれば余計な押し付けや、善意の押し売りになりうると思ったのです。 程度問題なのですが、ちょっと気をつけないといかんかなぁ???と思ったりしました。
 

改めて、何かの権威だから、偉い人がこう言ってるから、という感じで、何でもすぐ鵜呑みにしてはいけないですね。 ちょっと立ち止まって、疑問符を持ってみて、それから判断すると・・
この本を読むと色々の”当たり前”に対して、少し距離を置けるような気がします。
そういった点で、一読しておいて損はない一冊だと思います。
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2009年07月17日

本>社会学? 「パパラギ」 作:エーリッヒ・ショイルマン

「パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」,作:エーリッヒ・ショイルマン,ソフトバンク文庫です。
これが書かれたのは、1970年代のようですので、結構昔の作品。 サモア人酋長のツイアビさんが西洋文明をつぶさに見て、感じたところを自分の仲間達に語った内容が書かれています。 基本的に、サモアの人から見た西洋文明や西洋人の考え方に対する批判的な見解を示した内容になっています。

しかし、今読んでも、確かになぁ・・・と自分の耳が痛いような、そして、ちょっと意外な切り口で物事を見ていて、非常に面白い内容です。
上記で”西洋文明に対して”と書きましたが、それはこの方が主にヨーロッパを見て、その見解を述べられているので、そう書いただけで、その内容は、もっと一般的に、今一番幅を利かせている人間社会の仕組み全体に対して非常に痛い所をついているので、どの国の人が読んでもそれなりに意味がある内容になっていると思います。


細かいところでもたくさん面白い観点や考え方が書いてあるのですが、特に面白いと感じたことを書いてみますと、
”考えるという重い病気”の章で、考えるということに対して、特に物事を色々定義しようとする思考に対して非常に批判的で、それゆえに人々が苦しんでいるという主張には、非常に納得させられるものがありました。(そしてかなり耳が痛かった・・)
勉強して、物事を論理的に突き詰めたり、理路整然としてみたり、新たな概念を考え出して提唱してみたり・・・ なんとなく生まれてからの教育や、刷り込みで、そういったことがすごいこと,そうでないとダメなんだとなんとなく思い込んでいます。 でもそうでない答えがあっても別にかまわない・・・

もちろん、今の日本の社会で生きていくには、そうも言っていられないし、いまさら慣れ親しんだ、思考してしまう癖を捨て去ることなど出来はしませんが、一度こういった考え方に接するのは十分に意味があったと思っています。


もう一つは所有に関することで、”これは自分のもの”と定義してしまうこと,それが所有する欲望や他人と自分を比較することにつながり、結局は人の精神を大きく拘束してしまうことになっている。 この主張も非常に気持ちに響くものがありました。

どうも、この本全体を読んでみると、アーサー・C・クラークさんの「2001年宇宙の旅」
に出てきた一節が思い浮かぶのです。 一言一句正確ではありませんが、”人は、道具を作った、人はそれを使用してきた、しかし今や使用されているのは人であり、主人はもはや道具のほうなのだ”という内容の一文があったと記憶しています。
本当に、人は、様々な道具や、思想や、宗教や、社会の仕組みを作り出してはきましたが、むしろ人間の側がそれに縛られてしまっているように思えてしまいます。


この作品の主張が全てにおいて正しいと言えないのはもちろんです。 しかし違う視点での考え方も知ってみるという点では、非常にいい内容であると思います。
ご興味を持たれた方には是非一読をお勧めしたい一冊です。
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2009年03月17日

本>文芸 「予告された殺人の記録」 作:G.ガルシア=マルケス

「予告された殺人の記録」,作:G.ガルシア=マルケス,新潮文庫です。
町をあげての盛大な婚礼の翌朝、一人の男が切り刻まれて殺された。
殺した男達と、殺された男は、昨夜共に酒を酌み交わし、共に騒いだというのに。
しかもその殺人が行われようとしていることは、様々な形で予告されていたというのに、
結局、その殺害は実行されてしまう。


物語は、そこにいたるまでにどのようなことが起こっていたのか?どのような人がどのようなことを感じ,思い,判断したのかを丹念に記述し,語られています。
事件が起きた時代と、その20年ほどのあと、事件がどのように、そしてなぜ起こったのかを調べようとする”私”の行動を織り交ぜつつお話が進みます。
それを語る中で、人間の(というより人間社会の)めぐり合せの悪さとか、個々の人間の弱さ、卑怯さ、臆病さからくる行動、ある種の無責任さ等々。。。人間とその共同体、組織といったもののあらゆる側面が、重厚に、そして重層的に描き出されていて、単純にこうであったという感想などとても書けないといったところです。
しかし、これは本当にすばらしい作品だと思います。 中篇というくらいの薄い文庫なのですが、これほどの密度を感じさせる作品はそうそう無いのでは?と思います。


この作品の誰もが、そんなに激しい憎しみや誰にも止められない意思を持って行動したというわけではないのです。 しかし、殺害を実行したものも、やりたくない。 しかし、やらなければ自分が周りから嘲笑を受けるかも?という恐れから(そこに弱さがある)、この行動に出たように思えて、個々人を有形無形に縛っている、共同体や組織の”常識”とか”こうあるべき”といったもの怖さを感じました。 そしてそこから自由であることが如何に難しく、時に勇気がいることか・・・・
この作品、人間のあまりの多くの側面を描き出しているために、全てを語ることなどできはしないのですが、読後約3週間たって、このことが大きく気になっています。


もう一つは、人間がどんなにその考え方を近代的に、または、クールに割り切って行動しようとしても、その生まれ育った環境で、教えられ、刷り込まれた様々な”当たり前””常識”といったものからは、そう簡単に自由にはなれないこともこの作品を読んで痛感します。
この作品で本当に殺人が起きた原因は、結局明確には判らないまま(少なくとも私には)だったのですが、直接のきっかけは、婚礼の夜、花嫁が処女でなかったことから、花嫁を家に帰したことに起因しています。
この花婿は、他の街から来て、非常にお金持ちで、何事もクールに、お金で解決しようとしていて、あまり因習にとらわれた思考をしないような感じに描かれているように思えたのですが、結局”花嫁は純潔でないといけない”という、今を生きている我々の感覚からすると、やはり古臭い常識にとらわれて、それゆえに、大騒ぎをし、この悲喜劇の幕を実質的に開けてしまいます。
そして我々も、、、彼らと同様やはり生まれ育った社会の当たり前に余りに縛られているでしょう。 私なら、不惑を超えるまでに生きてきた間の様々な刷り込み、昭和の後半〜平成という時代、大阪に生まれ育ったという場所的なこと、両親から受けた様々な教え等等。
そういった中で、多くの”当たり前”を持っていて、それに縛られているはずです。
(岡本太郎さんの言葉をお借りすると、そういったものの泥にまみれているのです。)
おそらく様々な場面で、この作中の人物達と同じとらわれがあることを、読んだ誰もが感じるのではないかと思います。


この作家さんは、「エレンディラ」という作品を読んで、その世界観にひどく惹かれて、なにかもう一作と思って、買ってみた作品なのですが、これも個人的には大当たりで、ここ最近読んだ小説ではダントツにすばらしい作品だと思っています。
始めは、ちょっと読み進みにくいところもあるのですが、読んで決して損は無い、すばらしい作品と思います。 ご興味を持たれた方は是非、お手にとって見てください。
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2009年02月18日

本>文芸 「エレンディラ」 作:G.ガルシア=マルケス

「エレンディラ」,作:G.ガルシア=マルケス,ちくま文庫です。
背表紙の紹介文によると、”大人のための残酷な童話”として書かれた物語とのこと。
まさにその通りの7つの物語が収録された短編集。


この作家さんは、コロンビアの作家さんだそうで、それぞれの物語の舞台はラテンアメリカのどこかといった感じなのですが、その描写が、単に語り口が童話(又は寓話)的という以上に独特なものを感じて、その描かれている世界観は、非常に魅了されるものがあります。

人間の持つ様々な側面、残酷であったり、愚か/無慈悲であったり、単純に感傷的な言動であったも裏には自分勝手なものが覗いていたり・・・ 何とも書き表しがたい、複雑な思いにとらわれます。 しかし読むものをひどく引きつけるものがあると思います。


印象に残っているのは、
”大きな翼のある、ひどく年取った男”,貧しい寒村に、ひどく老いぼれた天使が漂着して去るまでの出来事を描いているのですが、その天使が、コミュニケーション出来る存在とは描かれていなくて、周りの人間が勝手に騒いでいろんな出来事が起きるのですが、天使自体はそれに関わりなく、季節とともに去っていく。 何かに勝手に期待し、相手が期待通りでないと幻滅し、、、と相手の立場になろうとしない人の身勝手さを感じる作品。

”この世でいちばん美しい水死人”,これも漂着した人並外れて大きな体の水死人の葬儀を挙げてやるといったお話なのですが、村人は、彼の姿から生前の彼のことを勝手に空想し、可哀そうがったりし、出来る限りの葬儀にしてやろうとします。 しかし、もし彼のような存在が生きてこの村にいたなら、村人達は彼をウドの大木扱いし、馬鹿にしたかもしれないことも描かれており、村人が彼を哀れみ、同情しているのも、彼が死人という自らの利害に無関係な存在になっているという条件下であってのこと。。。 なのでこれも人の身勝手な又は無責任な側面を感じさせるものと私には思えました。


”無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語”,これは、この本のタイトルになっているエレンディラのことで、本当のタイトルはこんなに長ったらしいものになっています。
このお話の最後で、エレンディラは、彼女を長い間抑圧してきた祖母が殺され、確実に息が止まったのを確認したとたん、分別+狡さを持ち、彼女のために祖母を殺害した男を残し一人走り去ってしまいます。 どこまで計画的であったかは、分からないにせよ、彼女が男に祖母を殺させ、その後男の期待と異なる行動をとったことは間違いないところと思います。
どこまで人は無垢といえ、どこから功利的といえるのか?どう考えていいか分からない複雑な読後感。


人の持つ余りにも様々な面,いい面悪い面ひっくるめて、余りにも多くのものが提示されているように思えて、それを批判的に見ていいのか?、自分に置き換えて自己批判/嫌悪のネタにしていいのか?どう思えばいいのか何とも整理がつかない複雑な読後感という状況です。 しかし、確実にこの作家さんの描き出す世界観に魅了されていると思います。
久しぶりに、個人的には大当たりの作品を読んだという気分です。/span>

意外と癖が強いかもしれないので、好き嫌いは激しい作品/作家さんかも知れません。
しかし、私は是非、この作家さんのほかの作品も読んでみたいと思っています。
ご興味を持たれた方は是非、お手にとって見てください。

※しかし、このところ、ちょっと重い作品が続いたので、ちょっと次は、楽に読めるのがいいかなぁ〜と言う気分です。
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2009年02月04日

本>文芸 「バベットの晩餐会」 作:イサク・ディーネセン

「バベットの晩餐会」,作:イサク・ディーネセン,ちくま文庫です。
ノルウェーの小さな町。 そこには、2人の姉妹と彼女達の父親が創設した宗教を信じる少数の人々がつつましく暮らしている。 姉妹の家にはフランスから逃れてきたバベットという女性が家政婦として家事一切を引き受けていた。

 物語は、姉妹とそれにつかの間邂逅した二人の男性の物語、そしてバベットと姉妹という大きく異なる価値観(おそらく永遠に分かり合えない)を提示しています。

正直もう少し、ほほえましい終わり方なのか?と途中までは思っていたのですが、いい意味でも悪い意味でもその予想は、最終の部分で覆されました。 自分に(自分の才能や技量に)自負がある人物の強烈な業の深さが、重苦しい印象を残した作品です。

宝くじに当たって大金を入手したバベット、彼女は、一夜の晩餐会の夕食の提供にその全てを費やしてしまいます。 彼女は、昔はフランスで天才と呼ばれた料理人で、賞金の1万フランを費やしその腕を存分に振るったのです。 確かにその美味は人々の心を溶かしたのは間違いないところの様でした。
 しかし、その理由は、自分の腕をもう一度存分に振るってみたいという単純な表現欲にあるのではなく、自分を「すぐれた芸術家」と規定しているバベットが、自らが思う最高の料理を作れる機会を逃さなかった、ということのようでした。 最高のものでなければ満足してはいけないとこの「芸術家」は思っていたようなのです。


人それぞれ、こだわりがあって、他人には理解できないことに情熱を注ぐというのは程度の差こそあれ良くあることなので、料理に対するバベットのこだわりもある程度は理解できます。 しかし、次善のもので満足するくらいなら何も無いほうがましだという彼女の考え方にはどうにもついていけないものがあり、自分の料理を理解してくれたかつてのフランスの支配者階級の人々を”私のものだった”とまで言い切るあたり、正直傲慢さすら垣間見え、不愉快にすら感じるものでした。

それに、こんなに自分に変なプライドを持ってしまって、”自分は優れている”と思い込んでいると、これからの日々の生活の中で決してバベットは幸福感を感じることは出来ないでしょう。 彼女はこの晩餐会以降の日々をずっと、”こんなものは料理じゃない”と思いながら作って、食べるのでしょうか? 料理人としてそれはすごく不幸なことのような気がします。
毎日の料理の中のちょっとした工夫に楽しみを見出すとか、金はかからないけど意外な食材を新たに見つけて試してみるとか、、 いくらでも出来る範囲内での工夫は出来ると思うし、そういった工夫に楽しみを見出せないなら、そういう人って料理人なのでしょうか??と疑問がわいてきます。


その意味では、何も持っていない、そういうものを理解は出来ないでしょうが、2人の姉妹のほうが幸福感を持って生きているか?いう問いには、はるかにはっきりと”YES”と言える存在ではないでしょうか??

”芸術家”ということの定義は、正直よく分からないところですが、ある一つの分野の表現が好きで、音楽/絵画/彫刻/料理/文章・・・ 何でもかまわないですが、何より自分が作りたいから作る、根底には、ただそれがある・・・ という光景のほうが、私にはよほど好ましい光景のように思えます。

結構否定的なことを感想として書いてしまいましたが、お話としてはとてもよく出来ていて、いろいろなことを読む側に考えさせてくれるとてもいい作品であると思います。
読んだ人それぞれで、きっとそれぞれの感想がある作品と思うので、是非一読をお勧めしたい作品です。
※ちなみにこの作品もBookOffの安売りセールで買った作品ですが、これは大当たりという気分です。
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2009年02月02日

本>自然・博物・エッセイ 「柳宗民の雑草ノオト2」 作:柳宗民,画:三品隆司

「柳宗民の雑草ノオト2」,作:柳宗民,画:三品隆司,毎日新聞社です。
日本に生息する雑草について、その名の由来、分類、関連する知識の紹介まで、平易な文章で紹介してくれている、博物エッセイとでもいう感じの一冊。

これの前巻は、ちくま学芸文庫で出ている文庫本を購入したのですが、今回は、本屋さんで単行本のこちらが並んでいるのを見て、手を出してみました。
 1800円とちょっと高いかなぁ?と思ったりしたのですが、よく考えると、ちくま学芸文庫
って結構高くって、文庫だけど1000円越えてたはずなのです。 この作品は、本文もさることながら、水彩で描かれているイラストがとてもすばらしくて、この作品の大きな魅力であるので、それを考えると、大きいサイズでイラストが見られるこちらほうが良かったかも?と思っています。 だから出した値段だけの価値は十分に感じた一冊です。


この巻も、四季折々に日本で見られる雑草60種余り(前巻で未収録)を紹介してくれています。 前巻を読んで、草の命名の傾向なども多少は覚えていて、スズメとつくと小ぶりなもの、カラスとつくと大柄なものとか、イヌとつくと余り役に立たないと当時の人間が考えていた傾向があるとか、、、そういったちょっとしたことでも覚えていると、読み進むのが楽しくなりますね。 今回も楽しく読ませてもらいました。

今は、冬真っ盛りで、川原や道端を見ても、枯れ姿が目立ったり、緑の草達もじっと耐えているという感じですね。 しかし後2ヶ月もすると、はっとするほどに雑草というのは伸びてきますよね。 人間が”寒さが緩んだ”と感じるころには植物達はとっくに次への準備を始めているのでしょうね・・・
去年は、気づいたときには、もうぐいぐいと伸び始めた草達の姿にはっとした記憶があります。 なので、今年は少し早めに、注意を払って、兆しを感じられるように心がけたいですね。(芽吹く辺りから観察できるように・・・・)
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2009年01月27日

本>エッセイ・ノンフィクション? 「沖縄オバァ烈伝」

「沖縄オバァ烈伝」,沖縄オバァ研究会,双葉文庫です。
沖縄では、おばあさんとは呼ばず、親しみと尊敬を込めて”オバァ”と呼ぶそうです。
私は、この呼び方は、NHKのドラマ「ちゅらさん」で聞いたのが初めてであったような気がします。 この本は、そのオバァたちの、元気に満ち溢れ、時にハタ迷惑でもあり、しかしどこか憎めないという様々なエピソードを紹介してくれているエッセイ&ノンフィクションという感じの作品。


ちょっと観点がずれた独特の発言とかがあっても、”いやそんなものなのかも??”と妙に納得して相手を認めてしまうような魅力を、この作品を書かれているライターの方は多かれ少なかれ皆さんオバァ達に対して持たれているように思います。

まあ、もし私が、実際にこのオバァ達と接したとして、このような親しみを持った感情を持てるかどうか?は分からないだろうなぁとも思いました。 こういった良かれ悪しかれ独特の癖がある場合、この作品のライターさん達の様にそれを愛すべきものとして感じられれば、とてもいいのですが、もし逆に感情的に受け付けない方に行ってしまうと、悪い所ばかり印象に残ってしまい、”厚かましい”とか”常識外れだ”とか思ってネガティブな印象ばかりが残るかもしれません。

一回二回なら笑って済ませられるしても、毎日のことであったら果たしてどうか?という問題もあるでしょうしね・・・

ただ、文章を読んでいる限りは、私は、オバァたちの独特の論法や感性が面白いとは思いました。
もし、実際にこのエッセイに出てくるような場面に遭遇したときに、唖然としたり、びっくりしたりしたとしても、その後、からりと(又はにやりとでも)笑えたとしたら、なんだかそれは、とてもいい光景のような気がしています。


また、この作品中には、沖縄の言葉の豆知識や、市場、お店の情報など、色々沖縄の情報が紹介されていて、雑学情報としてもなかなか読んでいて面白い作品でいした。
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2009年01月23日

本>戯曲 「リチャード三世」 作:シェークスピア

「リチャード三世」,作:シェークスピア,岩波文庫です。
なんとなく名前を聞いたことはある作品。 もちろん作者のシェークスピアという名前は聞いたことはあります。 しかし・・・「ロミオとジュリエット」とか、”生きるべきか死ぬべきか”という台詞くらいしか、考えてみれば知らない状態です。

ではなぜこれに手を出してみたかといいますと、偶然BookOffで”本日に限り文庫1冊200円”というセールをやっていたのです。 こういう”失敗してもいいか〜〜”と思えるチャンスがないと、なかなか見知らぬ分野/作家さんの作品には手を出しにくいので、チャンスとばかり手を出してみました。(このほかにも何冊か、まず普段は買わないような作品を買ってみています)

中世のイングランドで、同族間の陰惨で血みどろの争いが行われてきた中、あらゆる手段を用いて王の座をつかもうとし、つかんだと同時に失墜したグロスタ公リチャード(リチャード三世)を描いた戯曲。

この作品は、貴族の同族同士の権力闘争の争いを描いていて、主人公のグロスタ公リチャードは、まあ一際冷酷な人物として描かれていますが、出てくる登場人物のほとんどは、みな大同小異で、みな我欲が第一で、互いにだましあい殺し合いという感じで、正直どの人物にも共感できるものではありませんでした。

この物語は、簡単に言ってしまえば、因果応報とか、盛者必衰、程度の言葉で片付けられるように思います。 むしろこれらの人々の言動を読むことで、自らの反省材料を見出すという点で有用という作品ではないでしょうか???


グロスタ公リチャードも、悪謀は回る人物ですが、結局は誰も信じることが出来ず、片腕のはずであった人物にも王になった早々に去られてしまっています。
誰も信じないというのは、ある意味正しいのですが、この人物のまずいのは、自身の猜疑心ゆえに約束したことを反故にしてしまうため、結局協力していてくれた人物の信を失ってしまっていることで、その結果昨日までの見方が敵になってしまっているのです。
自らの権力体制を維持したいなら、欲でつってもいいから、様々な人物を自分に協力させる必要があるはずなのですが、王になったとたんに、その地位だけで自分が何をしてもいいと思い込んだのか、一気に支持を失ってしまいます。


私は、お芝居を見たことが無いので、実際に役者さんが演じられる舞台を見たならば、またこれとは違った感想が出てくるかもしれないのですが、とりあえず文章を読んだ現時点では、こんなところという感想でした。
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2009年01月16日

本>エッセイ 「周作塾」 作:遠藤周作

「周作塾」−読んでもタメにならないエッセイ−,作:遠藤周作,講談社文庫です。
遠藤周作さんが、ペントハウスという雑誌に連載したコラムをまとめた作品。
連載されたのが、1984年から87年と約20年前なので、内容的には、やや時代を感じるものが多いように思いましたが、読みようによってはそれなりに楽しめる内容であるように思いました。(どちらかというと若い男性向けの内容が多いように思います。)


色々なことが書かれているわけですが、私が、なかなかいいと思ったのが、最初のエッセイで、”名前を二つ三つ持とう”というもの。
人は、当然まず親が付けてくれた名前を持っているわけですが、それが嫌だったり、昔はすきでも今は嫌とか、自分にそぐわないと感じたり、名前のイメージを自分で作ってしまい、自分自身がそれに縛られるということもある。。。 だから、今の自分自身にこう名乗りたい(こうありたい)という名前を付けることで、気持ちが自由に、楽に、生きられたとしたらそれはそれでいいではないかという主張。 結構なるほどなぁと共感するものがありました。


文章の作家さんなら、ペンネームがありますし、美術の作家さんでも本名とは別にアーティストとしての名乗りをされる方もいます。 遠藤周作さんは、 狐狸庵山人という号をつけて、それで遠藤周作とは異なる味わいの活動を違和感無く出来たといわれています。

このエッセイが書かれたときは、インターネットは一般には普及していなかったので、そこまでイメージされてはいなかったでしょうが、今、インターネットにおける匿名の書き込みで使われるハンドルネームやアバターなどは、正にこれに近くて、自分が名乗ってみたい、またはこうありたいという名乗りを自身に付与することが出来るものと考えることが出来るように思います。(そのメリット、デメリットは別としてそういう効果もあるかと・・)

さて、そこで自分を振り返ってみると・・ このブログは”大阪下町オヤジ”という名乗りで書き込ませてもらっているわけですが、どうにもひねりが無いというか、ぶっちゃけ過ぎたネーミングで、どうにもセンスというものに欠けるな〜と思ってしまいます。
(しかし、正岡子規が主張したという写生の観点から言えば、正に私自身をシンプルにあらわしてはいないか??とちょっと我田引水的に自分を慰めてもいます。 大阪下町・メタボ・オヤジならもっと写生だ・・・・)
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2009年01月08日

本>文芸 「深い河」 作:遠藤周作

「深い河」,作:遠藤周作,講談社文庫です。
登場人物それぞれの理由と何らかの答えを求めて、インドへのツアーに参加し、ガンジス河に向かう人々。 それぞれの内面が語られつつ、人生のままならなさを感じさせる作品。

ある種、人生やこの世の混沌と不条理を象徴するかのように、インドツアーの中で様々なインドの姿が描かれます。 物乞い、ハンセン氏病の人、逆に裕福で優雅な人々(といってもかなりこの小説の中では批判的に描かれていますが・・私は実態を知らないのでなんとも言えません)、ガンジスに死ぬためにやってきて行き倒れる人、インドの人々の業苦を一身に背負ったようなヒンデゥーの女神チャームンダー。

何でも受け入れてくれるかのようなガンジスがあるものの、その一方では首相が暗殺され、宗教同士の対立も激化するような社会情勢もある。


この作家さんらしく、キリスト教の問題も描かれていて、信仰に関して悩める存在の象徴のように描かれる日本人男性も登場しています。 この登場人物は、日本人の土着的感覚と西洋の明確な教義、定義で割り切ろうとするキリスト教に違和感を覚えつつもどうしてもキリスト教から離れることは出来ないでいる・・・

過去読んだ、この作家さんの作品の印象と、この日本人男性と、主要な登場人物の一人、美津子の関係を見ると、この人の悩みを描き出すことが主題なのかな??と思ったりもしたのですが、個人的には、別のことが感想としては一番強いものになっています。


それは、どうも人間、何かに強くこだわってしまうと、生きていくのがしんどくなりそうだなぁと言うことです。 ある程度忘れられないと、非常に気持ちがつらくなってしまう。
この作品の中に出てくる登場人物の悩み、こだわりは、それぞれ非常に深刻なもので、どれもがそんな簡単に割り切ったり、忘れたり出来るようなものではないものなのですが、登場人物たちの苦悩の様子を読んでいると、そういった、作品に対しては失礼とも言える感想が浮かんできています。

この作品は小説なので、どこまでも妥協無く突っ込んでいくことで、人生の種々の問題点を描いているのでしょうが、現実、人生を行き続けなければならない凡人の解としては、どこかで妥協点を、それが甘えであったり卑怯であったりしても、そうせざるを得ないような気がしています。 (これも混沌としたインドが舞台であったせいかもしれません。)


この作家さんの作品を過去何冊かすでに読んでいるので、ちょっと描き方とか、登場人物の性格とかが、どうも過去作品の何かとかぶさって、ちょっと読み進みにくい感じが最初はあったのですが、一冊を読み通して見ると、この作品はこの作品でやはり独自の味で、なかなか良かった一冊でした。
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2009年01月06日

本>文芸 「乳房」 作:伊集院静

「乳房」,作:伊集院静,文春文庫です。
日常の中、又は生きていく中で起こる様々な出来事と人の気持ちの揺らぎを静かに描いている作品を集めた短編集。 表題作の「乳房」含め、5つの作品が収録されています。

人の哀歓を静かに描いているという点では、結構私の好きな傾向の作品のように思えたのですが、なぜかどれも深い印象に残るものではなく、ひどく薄っぺらな、表面だけの”まあ良かったかな?”くらいで終わってしまって、自分でも意外な読後感です。

”桃の宵橋”が、やるせなさという点で、一番気持ちに残っている気がしますが、それ以外はどうも現実感が希薄な感じなのです。


なんでかなぁ??と多少振り返ってみたのですが、もしかしたら、登場人物たちが、現実味を帯びた存在として感じられないせいかもしれないと思っています。
登場人物たちの背景や生活の泥臭い部分があまり描かれず、生身の人間が描かれているというより、おしゃれなドラマの登場人物でも画面越しに見ているような感じに思えてしまった気がします。。。。。


私は藤沢周平作品とかとても好きなので、こういった内容の作品は決して嫌いではないはずなのですが・・・ これが文体や作風の違いということなのでしょうか? まあそういった違いもあるのかなぁ??と思った作品でした。 決して悪い作品ではないと思うのですが、個人的には合わなかったようです。
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2009年01月03日

本>民俗学 「差別の民俗学」 作:赤松啓介

「差別の民俗学」,作:赤松啓介,ちくま学芸文庫,筑摩書房です。
日本の社会において、これまで(そして今も続く)差別、差別意識はどのようなものがあり、どのような意識構造のなかで作られてきたのかを様々に著述されています。

これを読んで、正直に驚いたのは、差別の種類の多さです。 無知をさらけ出すようで申し訳ないところですが、実際そこまで?と思うほど、様々なレッテル付け、本人と直接関係ないと思われることでも場合によっては執拗に遡り調べられその結果差別を受けてしまう実態。

こんなことを書いていると、私自身は、さも自分は差別を受ける状態では無い様に思っているようにとられるかも知れませんが、ある日突然、”あなたは××ですね”と自分がこれまで意識したことが無いことで突如レッテルがつけられて差別を受ける・・・ 現実、何時そういう目にあっても不思議ではないと思いました。 誰もがそうなってもおかしくないくらい、様々なことで、日本の社会は誰かを、何かを差別してきたようです。 正直、漠然とした不安に取り付かれています。


この著者は、柳田国男さんの唱えた常民という概念にひどく反発されているようで、更に、差別の実態に対してあまりに認識が低い、周りの社会にも非常に苛立ちを感じておられるようです。(私もそういう無知/無認識な人間の一人だと思います) そのためか文章が結構攻撃的で、最初は、もうちょっと冷静に書いて欲しいなぁとか思いました。 でもいいことがいっぱい書いてあります。

これを読んで、我々が反省して、これから気をつけないといけないと思うのは、少なくともこれ以上新しい差別のレッテルを作らないことだと思います。(著者の言葉を借りるとスジをこれ以上作らない) 差別が歴史的な昔からのものだけかというとそんなことは無くて、共産党を支持したら”アカ”といわれたりと、我々の社会は、何か変わったことをやろうとする度に、そのやった人に対して新しいレッテル付けをしてその人だけではなく、その家族、類縁の人々まで差別してきたようなのです。

それってものすごく非寛容な社会ですよね、個人的には、嫉妬心や過度の不安感といったものからそういうものを極度に恐れ、それにより差別し、差別することで自分が優越感に浸るといったことが悪く循環してしまうとそういうことになるのではないか??と思います。
(もしかしたら貧乏もその一因かも?と思います。自分の生存が脅かされないと思えば、少しは寛容になれるかも??と思ったりするのですが???)


文章が、先にも書きましたが結構攻撃的なので、そこがとっつきにくい作品かもしれませんが、トータルでみれば、一読して損は無い一冊であったかと思っています。
posted by 大阪下町オヤジ at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月02日

本>ハウツー物? 「完全版 自給自足の本」 作:ジョン・シーモア

新年明けましておめでとうございます。
このブログを始めて3回目の正月になりますが、今年の最初のネタを何にしようかと休みに入ってから考えましたが、ちょっと変わった本でもと思い、これにしてみました。


「完全版 自給自足の本」,作:ジョン・シーモア,文化出版局です。
タイトルどおり、自給自足の生活をしようとすると、どんなことをやらないといけないか?
考えないといけないか?をかなり広範囲に渡って、本格的に紹介している本です。
写真はありませんが、なかなか味のある、分かりやすいイラストが多数載っていて、眺めているだけでも結構面白い本です。


何でまたこういった本を購入してみたかといいますと、別に急にスローライフに目覚めたわけでも、エコな生活を求めたくなったわけでも何でも無いのです。 が、最近思うことの一つとして、生活を防衛する手段の一つとしてこういうことも知ってないといけないかなぁ??と思ったりしたのです。(自給自足とまではいかなくても、食物を自分で作って自分に供給できる技術を持っていると、ちょっと安心できる気がしません??)

この本の作者は、ヨーロッパの方なので、この本はヨーロッパで自給自足の生活をするならば?の内容になっています。 その為、土地の活用にしてもいきなり1000坪の活用から載っているなど、小さな庭で家庭菜園といったものとは規模が違いますが、自給自足という生活にはどれくらいの種類の技能が、知識が必要かと言うことを知ることが出来る内容になっています。

なんといっても最初が開墾、そして畜産、動物の解体、そして野菜等農産物の栽培、それだけでなく、木工、陶器制作などの生活用品の生産の技能なども紹介されています。 これだけ広範囲に紹介されているのってちょっとあまり無いような気がします。
(確かに生活って単純に食物を生産するというだけではないですよね、結構目から鱗でした)


もちろんこれを読めば完全に自給自足生活が実践できるというものではないのは確かです。
 著述が広範囲であるだけに、個々のパートの記述がそこまで詳細になされているわけではないので、実際にどれか一つでもやってみるとしたら、一つ一つの作業で、各々自分なりのノウハウを身につけていくということになるのだと思います。(特に畜産なんて相当本格的に取り組まないと出来ないですよね)


しかし、雑学的でもいいので、ちょっと一読してみるだけでもなかなか面白い本です。 お値段3000円とちょっとお高いですが、結構お勧めの本ではないかなぁ??と思っています。 ご興味のある方は是非・・・。
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2008年12月31日

本>エッセイ 「看護婦が見つめた人間が病むということ」 作:宮子あずさ

「看護婦が見つめた人間が病むということ」,作:宮子あずさ,講談社文庫です。
実際に看護婦として長く勤務し(今も続けていらっしゃるようです)、様々な患者と接してこられた経験から人間が病気になったときの様々な心/治療/家族・社会とのかかわり等の問題について綴られているエッセイ作品。

テーマがテーマだけに、読んでいてリラックスできるとかそういったエッセイではありませんが、色々考えさせられるし、結構なるほどと思うこと/反省しなければと思うこと、、もあり、読んでなかなかよかったなぁと思った作品でした。

人間が、身体の病気でも、心の病気でも、病むと、これまで当たり前であったことが当たり前でなくなり、出来ていたことが出来なくなる、そういったところから、様々な自分自身も家族との関係もさまざま問題が噴出し、苦しむことになってしまいます。

幸せに暮らしていた人が急性の不治の病で身体的にも精神的にも暗転し、直らないまま亡くなられるエピソードや、死の病になっても家族との関係は結局修復しなかったなど、ドラマのようにはいかないやりきれない現実が色々語られています。

基本的には、そういう現実の中でも、何とか人に寛容に、または看護婦として真摯に接しようとされている著者も、時に徒労感や、苛立ちを感じることも、また正直に語られています。


全体からすると、こうすればいいという一つの固定された答えなど、生きていくということの中ではあるはずも無く、一人ひとり、生まれた環境、人間関係の中で、それぞれの答えを見つけるしかないものなのだと、いうことを改めて感じたというところでしょうか。。。
それと、あまり”こうでないといけない!”と自分の考えや一つの考えに固執しないことでしょうか? 状況を見て、周りを見て、適当に”じゃあこうしてみようかな・・”とふにゃりと変えてみる。 簡単ではありませんが、まあそんな心持を持っていることが大事なような気がしました。

特に印象に残っているのは、”人間は忘れることが出来るからこそ生き続けていられる”という言葉です。 これは本当にそうだなぁとしみじみ思いました。 昔の失敗や、恥をかいたことをいつまでも新鮮な記憶として思い続けたら、本当に人間どうにかなってしまいます。 そういったことをある程度忘れられるからこそ、ディテールが薄れるからこそ、人は何とか生きていける。 それが良いか悪いかは別ですが、それが現実と思います。


一読して損は無い作品かと思いました。 これを読んで、ちょっと周りに対して寛容な心持を持ってみようか?と思えたら、とてもいいことではないでしょうか?? そんなことを考えた作品でした。
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2008年12月30日

本>ノンフィクション 「ルポ 中国「欲望大陸」」 作:富阪聰

「ルポ 中国「欲望大陸」」,作:富阪聰,小学館新書です。
著者が、通常のニュース等で我々が目にする以上の中国社会の歪みや問題点を取材した内容をまとめたルポタージュ作品。 特に欲望を満たすために歯止めが利かなくなっているかに思える出来事を多く取り上げています。

生活のため?又は欲望のために?愛人となる若い中国人女性たち、しかし、その生活は決して安心/安定をもたらすものではなく、彼女たちのほとんどは、将来に不安を抱え、別れ話から悲惨な事件を起こすこともあり、また生まれる子供の問題もあり、彼女たちが稼ぐ金で家族が潤う現実の一方、常に社会からは批判の目でみられてしまう。

ネットの世界にのめりこむあまり、それが全てになり、親がネットを規制しようとしたらそれをためらいも無く殺害したり、ネット結婚というちょっと理解しがたいものに現実を離れた自らの理想の夫婦関係を求めようとする・・・・。

替え玉受験、ニートの問題、麻薬の蔓延、医療の問題、中国がいま抱えている様々な問題が取り上げられています。

個々の問題はそれぞれにとても深刻で、似たようなことは当然日本にもあるわけですが、かなりその現れ方が極端になっているように思われました。
 個人的に一番理解しがたかったのが、ネット結婚という、まあある種のセカンドライフ的なもので、ネット上で知り合った男女(もちろん性別を偽っている可能性はあり)が交際し結婚し、住居や車などのぜいたく品(たぶん現実のものではなく、ネット世界の擬似的なもの)を夫が妻に買い与えたりする。。。 これにはまるのは多くは女性で、現実の婚約者を持ちながら心はネット結婚の相手にはまっていくという心理はちょっと理解しがたいものでした。 
 現実の生活がそれだけ厳しいということなのかもしれませんが、妄想で白馬の王子様を夢見るくらいならまだしも、ネットを介してしか接触していない、いわば虚像の相手にそこまで感情移入できるというのは??? どうなのでしょう???


私は以前の記事で、「阿Q正伝・狂人日記(吶喊)」,作:魯迅,の感想を書いたことがあるのですが、その時の感想の一つが、全ての登場人物が、他者に対して“容赦が無い”というものでした。 他者への共感や相手の立場になって思いやるということがどうにも希薄であるように思えたのです。

同じようなことを、このルポタージュを読んでの全体の感想としてやはり持ちました。
最近の中国社会の問題点を現すキーワードとして”拝金主義”というがニュースであげられていましたが、それ以上に、”個人の欲求がとにかく最優先”という気分が蔓延しているように思えました、そしてそのためには手段は選んでいられないと。。。
それほどに過酷な競争社会なのかも知れないのですが、どうも魯迅の作品を読んでの感想と重なるところと思い合わせると、伝統的な社会習慣にもどこか根があるのではないのか?という気がしました。 もちろん私は中国の専門家でも社会学者でも、ジャーナリストでもないので、これは単なる憶測に過ぎませんが。。。。。


特に気になった作中の一文があって、中国社会では、法律を犯しても権力筋や警察筋に人脈があってそこにコネがあれば、何かしでかしても大抵上手く計らってくれる、だからみんな人脈を探る広げる、維持するのに労力を払うのだと言うあたり。(大意はこんな感じであったと思います) これを読むと、中国の人は、表向きの社会の制度を尊重せず、むしろ裏のつながりこそが重要であると思っているのではないか?と思ったのです。 つまりコネさえ持っていれば、違法なことをして、それがバレてもどうとでもなると思っているのではないでしょうか? だから我欲のために手段を選ばないということを、いとも平然とやってのけてしまう。
日本人的な理想からすると、そこに倫理の抑制が働かなくてどうする?と思いたくなるところですが、こんなことを中国の方に言ったとしたら、それこそ鼻で笑われてしまうでしょうね。。。


もちろんこれが中国社会の全て、中国の方の全てでは無いのでしょうが、かなり暗部を描いていることは間違いないと思いました。 この作品のエピローグで、著者は、中国が今後発展するという材料にも、沈んでいくという材料にも事欠かないと描かれています。 それが実際のところなのでしょう。一面だけみてその社会を測れるわけも無いですから。。。
ただ願わずにはいられないのは、発展するにせよ何にせよ、底辺の人々の苛立ちや、切迫感を何とかする方向には行ってほしいと思います。 日本もそうですが、極端な格差社会というのにはなってほしくないですね。(戦前や明治のような感じにはなってほしくないです)
posted by 大阪下町オヤジ at 03:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 本の雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月18日

本>時代・歴史 「人間の剣 昭和動乱編」(一)〜(四) 作:森村誠一

「人間の剣 昭和動乱編」(一)〜(四),作:森村誠一,中公文庫です。
拵えは粗末ではあるが、その刀身は名状しがたい色合いを持ち、持つものに不思議な気力、力を与える“無銘剣”,無名の人々の手を渡り歩く中で歴史のさまざまなエポックを描いている作品。

戦国・江戸編・幕末維新編に続いて、描かれた昭和動乱編を読みました。 全4巻で、一応これで完結とのことです。
4巻のタイトルは、(1)狂った天誅、(2)最後の特攻、(3)マッカーサーの息子、(4)永遠の剣 となっています。
前半2巻が、昭和十年の永田陸軍少将殺害から二・二十六事件あたり、軍部の強硬派が勢力を増して、日本がファシズムに流れていって、日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦までを。
後半2巻は、敗戦後からその混乱とその時期に苦しんだ庶民の労苦、段々に復興していき、そして御巣鷹山の飛行機事故まで、昭和史の中の様々なエポックを特に庶民の視点から多く取り上げつつ、描いています。


無銘剣は、この昭和動乱編では、戦場にでてこれが使われることはほぼありませんでした、作家さんの視点は、軍国主義の圧政下、または戦後の混乱の中、その理不尽な被害を受ける人々に注がれていて、持ち手のほとんどは無名の庶民です。 

私は元々近・現代史はあまり詳しくないほうなので、この作品で取り上げられているような事件は、知らないことが多く、こんなこともあったのか。。。と色々知ることが出来ました。

戦中の軍国主義下での様々な思想統制、圧力、等々に関しては、認識は持っていたので、色々描かれるエピソードに苦々しい気持ちは持ったものの、驚きというところまでは行かなかったのですが、一番驚いたのは、4巻の”レグホンの歌声”で出てくる、戦後の企業の社員に対する、まるで軍事政権下もかくやと思われるほど規則、規制、でその生活を縛っている様子が描かれていたことです。 正直、戦後になって、その辺りは結構緩和されていたのではと思い込みが私にはあったのですが、財力や権力を持った側の意識が早々変わるわけでもないというのがはっきり描かれていて、一番気持ちが暗くなったエピソードでした。


人の持つ支配欲や嫉妬、欲望というものは、どうしても消えることは無いのか? もちろん完全に消し去ることなど、どんな人間にも不可能なことですが、せめて積極的に人を虐げないくらいにそれを制御することは出来ないものでしょうか???

自分自身が出来ていもいないことを、こんな風に書くのはひどく身勝手にも思うのですが、自分も何とかそうありたいと思うし、社会一般がそういう心持を持っていられたらもう少し何とかなるのでは?と、つい理想主義的なことを思ってしまいます。


この作品は、戦国時代・江戸時代・幕末維新・昭和と複数の時代が描かれてますが、いつの時代でも、同じことが繰り返されている気がして、気分が暗くなります。

作品全体としては、無銘剣と、兄弟剣の関係は、まだはっきりと解決していないみたいですし、まだ描こうと思えば続きを描けそうなのですが、昭和50年代まで来ているので、それ以降を歴史として、小説に描くのは難しいのかもしれません。
何にせよ、どの時代も、歴史の表面に出ることの少ないエピソードや事件を結構取り上げていてくれて、そういったことを知ることが出来たという点ではなかなかいい作品であったと思っています。


もう一つ、この昭和編で本筋とあまり関係なく、ひどく気持ちが揺さぶられた部分がありまして、最後に書いてみたいと思います。
それは、広島原爆投下のエピソードで、投下後の夜、産気づいた女性から被爆で気息奄々となった老産婆が赤ん坊を取り上げるというもので、その様子を詠んだ栗原貞子さんという方の詩がそのまま紹介されています。 おそらくこの詩が先にあって、この作品ではそれを使ってエピソードを構成されたと思うのですが、読んでいて、正直なんともたまらない気分になりました、”生ましめんかな” というタイトルの詩なのですが、非常にすばらしい詩だと思います。

私は、詩はほとんど読まないのですが、これはすばらしいと思いました。 ご興味のある方はぜひ読んでみてほしいと思った詩です。


余談になりますが、この4冊はamazonで購入しました。 実は、私はネットからの購入というのはこれが初めてで、本屋さんに注文しても良かったのですが、試しにやってみました。
コンビニで支払いも受け取りも出来るのがいいですね。 仕事で家にいない時間が多いので、私は、コンビニに好きなタイミングで取りにいけるのが気に入りました。
でも、関連商品とかが紹介されるので、ついつい買いすぎてしまいそうな気がするのでその辺りは注意しないとなぁ。。と思っています。
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2008年12月09日

本>時代・歴史 「冤罪」 作:藤沢周平

「冤罪」,作:藤沢周平,新潮文庫です。
藤沢周平の主に藩の下級藩士を描いた短編を集めた時代小説集。 全部で9編の作品が収録されています。
傾向としては、色々で、特に何か共通したテーマがあるという感じではありませんでしたが、それぞれに面白く、なかなかいい作品集であるというのが感想です。


印象に残っているのをあげると、
表題作であり、巻末収録の”冤罪”,人の世のしがらみや、自らの保身、小心の為に姑息な決断を下さざるを得ない人々を描きつつ、最後は、主人公が、武家の束縛を離れる形で、思いを寄せていた娘との再開を果たすという点で救われる読後感の作品。
もう少し泥臭い、人間臭い展開ですが、最後に武家の束縛を離れる形で自らの生活の基盤を見出すという点で(それが女性に絡んでいるという点で)似た展開で、かつどこか諧謔味があったのも共通と感じたのが、”証拠人”。


余人には理解できない秘めた、ある種鬱屈した暗い情熱の持ち主とその満足感を描いていたという点で、変わった傾向でしたが、面白かったのが”唆す”。

飛びぬけて、強烈に印象付けられたものも無かったのは確かですが、どれもいい作品で、秀作の作品集といっていいのではないかと思います。
藤沢ファンなら十分に楽しめる内容であると思います。
posted by 大阪下町オヤジ at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

本>時代・歴史 「風の果て」上下巻 作:藤沢周平

藤沢周平作,「風の果て」上下巻,文春文庫です。
藩の首席家老に登りつめた主人公桑山又左衛門のもとに一通の書状が届く、それは少年時代からの友人、野瀬市之丞からのもので、なんと又左衛門との果し合いを求めるものであった。

又左衛門の脳裏に、剣の修行や婿入り先をどうするかと悩んだ少年/青年時代のことが思い返される。。 物語は、少年/青年時代の回想と、首席家老である現在とが交互に描かれていきます。 その中で、仲間であった4人若者のそれぞれの運命、悲哀が描かれていきます。

何が幸いであり何が不幸または災いであるか分からない、簡単には判断もできない運命というか、人の世のままならさというものを強く感じる内容になっています。

幸せな結婚をしたはずの男がその妻の不貞から人生を狂わせてしまう。 また、家臣としてはもっとも栄達したはずの又左衛門の夫婦関係は冷え切っており、そして孤独のままに初老を迎えた市之丞・・・ それぞれの浮き沈みがそれぞれの重みを持って描かれています。


また、軽輩から農政一筋に勤めて、立身していき、ついに執政という権力者の仲間入りをして行く中での又左衛門自身の内面の変質も描かれています。
好むと好まざるに関わらず、今の地位を維持するために、どこかで妥協し、時に腐敗と見えることにも目をつぶり、権力争いのために裏の根回しや策略も講じるようになる。 自らは仕事を成し遂げるために必要なことと割り切りつつも初めは戸惑いつつ、そしていつしかそこに疑念を感じなくなっていく。。。


私がこの作品でいいと感じるのは、そうした主人公自身の変質も含めて、登場する人物の誰の立場も、だれの判断も是であるとも非であるとも言っていない所であるように思えます。
人は、その置かれた立場で、必要なこと,求められること,はそれぞれに異なる、だから簡単には誰が善で誰が悪であるとか、誰が一番幸せだとかはそれこそ言えるものではないというものなのだと思います。
(栄達した主人公は、権力も、金も確かに持っていて、人々の敬意も受ける、しかしその反面その地位を維持するためには権謀も用いなければならず、時に命の危険にもさらされる)

そして、この作品は、主人公が、やはり家老として生きていかなければならない、そして端然とそれに向かい合うところで終わっています。 単純な諦念というのではなく、生き続けると言うことに対する静かな強さというものがそこに感じられます。


そしてもう一つ、この藩を捕らえている借金や貧困は、歴代の執政たち(主人公の政敵たちも含む)が等しく取り組んだ課題であるのに、まだ少しも光明は見えておらず、結局常に何らかの課題が突きつけられているというあたりも非常に印象に残っています。 この作家さんの別の作品でも政治とその課題に関して同じような描き方がされていたのですが、政治のレベルの課題というのは、常に、どんな方策を採ったとしても、そこにはメリットとデメリットがあり、何をしたとしてもそれなりの問題をはらんでいる、きれいな解決などはできるものではないと言っている様で、政治や権力者というものに対する醒めた見方があるように思います。

よく政治的経済的な改革を成し遂げた人物が、英雄のように描かれ、問題を解決したハッピーエンドで終わるお話はよくありますが、そういったものとは一線を画した見方であるように思え、私には、これのほうがより現実的な見方であるように思えました。


こういう感想を書くと、ひどく重苦しい読後感であるように思われるかもしれませんが、そんなことは無く、静かですが、じんわりとしみじみ気持ちに響いてくるとてもいい作品です。
一読して決して損は無い一冊であると思います。
posted by 大阪下町オヤジ at 03:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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